夢でささやくピアノ

クラシックピアノとジャズピアノの両立を目指す、ねむいゆめこの迷走記録

【自撮動画】2回も迷子になった最悪アンサンブル練習会

 

失敗を忘れずに記録することにした

入会しているジャズピアノ&ボーカル教室のアンサンブル練習会に、先週末参加した。私にとっては2度目の参加だったが、前回は比較的うまくいったのに比べて今回は反省材料の多い、最悪な練習会となってしまった。

私はイヤなこと、失敗したことには正面から向き合わず、いつも忘れることで今まで過ごしてきた。しかし、ブログも始めたことだし、ちょっと生き方をかえてみよう、と思い、失敗を忘れずに記録することにしたのだ。

JR大阪駅→福島周辺で地理的迷子になる

当日はすばらしい秋晴れの日だった。アンサンブル会のスタジオの最寄り駅は、大阪環状線の福島駅だが、前回の経験で、JR大阪駅から福島だと、充分歩ける距離だと判断した。それで、福島駅で降りず、大阪駅で降りることにしたのである。

これまで乗り換えで何回か利用したことのある大阪駅だが、出口まで到達したことはなかった。とりあえず、どこの出口かわからないが、外へでてみることにしたのだが、周辺があまりに美しく、いわば整備されているのにビックリした。

巨大なビルの周辺には街路樹の緑がきらめき、歩道にはパラソルがおいてあってまるで、青山、表参道みたい。私の知っている泥臭い、ややこしそうな大阪はどこへ行ったのだ?

スマホのマップを参照しながら歩いたのにもかかわらず、なぜか目的地の北方向に歩いていたようで、すばらしい陽気のなか、汗はだらだら、日傘をさしながら、約1時間も放浪したのだ。早めに家を出たから大事には至らなかったが・・・まず、これが迷子の1回目。

初見歌伴で音楽的迷子になる

2回目の迷子は、以前からちょっと心配していた初見歌伴で起こった。文字通りの初見で、その場で譜面を渡されたのだが、曲はまぁまぁ知っている、「Our love is here to stay」、キーはB♭だからそんなにむずかしくない。

おまけに歌ってくださったのは、先生の奥様でプロのボーカリストだから問題が起こるはずがないのだ。

ところが、私はあまり面白くないイントロからはじめ、テーマ、そして自分のアドリブを弾いているうちに、突如、どこを弾いているかわからなくなったのだ!

助けを求める意味で、私はベースとドラムのお兄さんたち、そしてボーカルの奥様のほうをキョロキョロしたが、たぶん3人ともどうにかしよう、と思ってくださっていたのかもしれないが、私からは「こりゃ、助けようがないわ」と思われたように見えた。

しかたなく、私はもう一度、テーマにもどり、そしてやっと、奥様にはいってもらって、無理やりダサいエンディングで終わらせることにしたのだった。他の生徒さんたちが、知らない曲でも見事に歌伴を務め上げたのに比べて、なんと恥ずかしいことか!間違いなく「ロスト」してしまい、これが2回目の迷子。

【自撮動画】ベースとドラムからスルーされた「Golden Earrings」

実はこの歌伴の前に、ピアノトリオで「Golden Earrings」を弾いたのだが、これもあまりうまくいかなかった。

私の思惑では、イントロ4小節のあとに、ベースとドラムにはいってもらうつもりだったが、なんとお二人にスルーされてしまい、私はひとりでテーマの最初4小節を弾く羽目になったのだ。なんでやろ? そんなにはいりにくいイントロだったのか? それともショボすぎて、もっと弾くだろうと思われたのか?次回のレッスン時に、先生に確かめてみるつもりだが、きっとこう言われるのだろう。

「ソロピアノのクセがぬけてへんから、コミュニケーションが足らんねん。」

思い出したくない演奏だが、反省材料として下に貼っておく。

 

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バッハがルイ14世と同世代だったとはね

 

「チェロとピアノ、バレエの饗宴」コンサート

兵庫県芦屋市ではだいたい1~2か月に1回の割合だろうか?公民館で入場料¥500というコンサートが行われる。

申し込み方法は、郵便ハガキかファックスというどちらかと言えば古典的なもので、ファックスを持っていない私は、このためだけにハガキを買いに行くはめになり、「ネット申し込みにしてほしいなぁ」と思うのだが、なにしろ500円なので文句はいえない。

今回は申込者が多く抽選となったらしいが、私にしては珍しく「当たり」で9月24日(土)に「チェロとピアノ、バレエの饗宴」を鑑賞することができた。

バレエはチケット代がとても高いから、そうそうは見に行けない。2018年にキエフ・バレエ団の「胡桃割り人形」を見たときも、その素晴らしさに目が釘付けになったが、やはり舞台と私の席までは遠かった。(そういえば、今回の戦争でバレエ団はどんな被害を被ったのだろう、とずっと気になっている。名前もいつのまにか、ウクライナ国立バレエに変わっているようだけど)

そういうわけで、今回至近距離でダンサーさんたちが踊るのを、みることができたのは、めったにない機会だった。曲目はチャイコフスキーラフマニノフ、サティ、サン=サーンスなどチェロの奥深い音色とピアノの響きが絡み合い、それにバレエが加わるのだから、まさに「目によし、耳によし」だった。

バッハの時代でバレエの基礎ができた

舞踊評論家でもある司会者のかたが、バッハの無伴奏チェロ組曲を、紹介されたとき、

「バッハが作曲した同じ時代に、フランスではルイ14世の治下でバレエの基礎ができあがった」と説明されたのだが、瞬時にはピンとこなかった。

あれ? ルイ14世って、バッハと同時代だっけ? ルイ14世のほうが、ずっと前の世代だと思っていたけれど・・・これは私の完全な誤解だった。以下のサイトからの抜粋だが、関係性はこうなる。

バッハの時代(その2)

フランスでの絶対王朝と言えばルイ14世太陽王)、15世とヴェルサイユ文化が思い浮かぶが、ルイ14世の治世が1643年から1715年でバッハの年齢で言えば生まれてから30歳まで、ルイ15世の治世が1715年から1774年、バッハの年齢では30歳から死ぬまでということになる。

映画「王は踊る」

私の好きな映画に、ルイ14世を題材にした「王は踊る」というのがあるが、この映画ではルイ14世から寵愛を受けた宮廷音楽家、リュリの音楽が使われている。

私には、リュリの音楽のほうがバッハよりずっと、洗練されていないというか、粗野、前近代的に感じるので、バッハはもっとあとの世代かと勘違いしていたのだ。

ルイ14世がリュリの音楽とともに、踊る場面の動画があったので、よろしければどうぞ。

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アンナ・パヴロワの来日公演から100年

もうひとつ、このコンサートが教えてくれたこと。伝説のプリマバレリーナアンナ・パヴロワの来日公演から今年でちょうど100年になるそうだ。

アンナ・パヴロワのバレエ団一行は1922年、船で来日。東京をはじめ、日本全国11都市で公演したそうだが、この時代はまだバレエを初めてみたひとが多く、芥川龍之介や映画評論家の淀川長治氏も観客のひとりだった、ということを公民会の展示で知った。

100年前。若いころならずいぶんと昔に感じたかもしれないが、その半分以上をすでに生きた今となっては、そんなに昔とは思えない。なのに、アンナ・パヴロワが神戸公演を行った、新開地の聚楽館はすでにないし、第一、新開地も今ではそんな有名タレントを呼び込める場所ではない。

おまけに広告主の「大丸百貨店」は100年前は、まだ「大丸呉服店」と名乗っていた。世の移り変わりとはこんなに早いものだ、と実感する。

 

 

 

仏語圏最大の都市はキンシャサ?

 

キンシャサ、仏語圏最大の都市

先日、「ブルース・リウさんのフランス語インタビュー」を記事にしたとき、書かなかったことの一つに、ブルースさんが、「モントリオールはパリに次いで、2番目のフランス語圏都市だし」という趣旨の発言をしたことがある。

これを見たフランス語のムッシュー先生が、「これは間違いだ! パリに次ぐ、フランス語圏の都市はキンシャサだ!」と叫んだのだ。

私はそのとき、ふーん、と思っただけだが、後日調べてみてびっくりした。

なんとパリの人口は12,532,901人(2020年調べ)。キンシャサは14,970,000人、モントリオールは4,098,927人(2016年調べ)だから、統計のタイムラグを考慮するとしても、仏語圏最大の都市はパリではなく、キンシャサではないだろうか!?(もちろん、キンシャサコンゴにはローカル言語があるけどね)

アフリカ訛を習得した駐日ザイール大使館時代

キンシャサコンゴ民主共和国の首都だ。

コンゴ民主共和国はベルギーからの独立を経て、1997年、ザイール共和国から現在の国名になった。

つまり1997年まではキンシャサは、ザイール共和国の首都だったということになる。

私がフランスから帰国後、すぐに就職したのは当時、原宿にあった駐日ザイール大使館だった。

2年ほどのカオスに満ちた職員生活の思い出を、いつか記すこともあることもあるかもしれないが、まず思い出すのは、まだパソコンが普及していなかった時代だから、タイプライターで読みにくい手書きの原稿を清書していたのだが、修正テープで真っ白、あるいはミスタイプが多すぎて、よく叱られた。

さらに困ったことは、私のフランス語はアフリカ化し、いわば無意識のうちに、アフリカ訛のフランス語を習得してしまったことである。

フランス人は、フランスで話されるフランス語しか、フランス語と認めない人も多いので、東京で知り合ったフランス人には驚かれるし、ボーイフレンド=現夫もお気に召さなかったらしく、「パリからの帰りにキンシャサに寄ったのか?」と皮肉をいわれる始末だった。

このアフリカ訛が抜けるまで約10年はかかっただろうか。あと、主にベルギーで使われるようなフランス語、そして表現なども、当時は普通に使っていたが、今ではすっかり忘れてしまった。メモを残しておけばよかったと後悔するが、後の祭りである。

パパ・ウェンバで踊ろう!

駐日ザイール大使館に勤めて本当に良かった、と思えるのは何といってもパパ・ウェンバ(Papa Wemba 1949-2016)のライブを東京のブルーノートで、無料で観られたことである。

パパ・ウェンバは、コンゴのポップスとロックを融合させたルンバ・ロックの生みの親で、「コンゴ・ルンバの王」と呼ばれた。1990年代以降はヨーロッパ、特にパリで活躍していたようだ。

彼の音楽は、ひとことで言えば、ガールズコーラスが華を添えることが多く、踊りだしたくなるノリのよい音楽で、その音域の広い歌唱力はちょっと例えようがない。

またコンゴの人たちは着飾るのが好きで、パパ・ウェンバはこうした人たちのファッションリーダーでもあったようだ。彼のsape(サップ:めかしこむこと)ぶりがわかる動画を下にご紹介する。

ああ、キンシャサ

たぶん21世紀の後半には、世界中の人が訪れる、ダイナミックで魅力ある都市になっているのではないだろうか。

 

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あの焦りが蘇るペール・ギュントの「朝」

 

昔から朝は苦手だった

私はこれまで大きな病気はしたことはないのだが、朝、気持ちよく起きられた記憶はほとんどない。

たしかに年齢が上がるにつれ、眠りは浅くなり、10時間以上ノンストップで寝られることは少なくなった。途中で目が覚めて、そのあと眠れなくなることも、なくはない。でもだからといって、そこで起きようと思うことは、まずない。たいてい、布団のなかでぐずぐずしている。そしてあれやこれや妄想していると、いつのまにか寝入ってしまい、再び目が覚めたら午前9時を過ぎていた、ということもよくある。(この場合でも就寝したのは前夜23:00過ぎである)

60を過ぎた今でもこんな具合だから、会社員時代はもちろん、思春期の頃はもっとひどかった。特に私が中学生の頃は、ラジオの深夜放送が花盛りだったから、夜寝るのも遅かったのだ。

そしてどんなに時間がなくても、朝食にチーズをはさんだトーストを食べてから家を出ていた。それも今と変わらない。

中学校の朝の放送

学校の近くに住んでいないのでわからないのだが、今でも学校放送で校外に聞こえるような音楽を流すのだろうか? 当時は考えたこともなかったが、あれって近所に住む人は毎日大きな音で音楽を聞かされて迷惑だったのではないだろうか?

とにかく私が中学生だった半世紀前、通っていた中学校では、毎朝、グリーク作曲のペール・ギュント組曲「朝」を流していた。

 

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ペール・ギュントの「朝」と私の焦り

この曲は朝のすがすがしさが感じられるとてもいい曲で、出だしもフルートでpかmpか、楽譜を見たことがないのでわからないのだが、とても穏やか、と通学路を歩いている中学生の私は思う。

そして、徐々に他の楽器が加わってきて、もうこのころには私は学校の門から約400メートルの公園が視野にはいっていないといけない。

そして中間部でメロディーが最高に盛り上がるところでは、もう信号待ちの地点まできていないと間に合わない。

なのに、現実の中学生の私は、まだ公園を横目でみている地点で、盛り上がったメロディーにあわせるように競歩~小走り状態で、信号に突入しようとしている。

「ああ、あかんかもしれへん!!」と心の中で叫びながら。

だから、私にとってペール・ギュントの「朝」はあの焦りを蘇らせる曲にほかならないのだ。ほんとうにダメかもしれない、と思ったときは信号を渡ってから校門までの坂道を転がるようにダッシュしたよ。

もうその頃にはペール・ギュントの「朝」は静けさを取り戻しているのにね。

 

迫力満点の「山の魔王の宮殿にて」

ペール・ギュント組曲では「朝」のほか、「ソルヴェイグの歌」とかいい曲があるが、私がことのほか好きなのが、「山の魔王の宮殿にて」という曲。

CMでもよく使われているようなので、ご存じのかたも多いと思う。オーケストラの曲だけれども、ピアノ用にアレンジされたのがあるんだね。

今回、見つけた動画は、ロシア人ピアニストでデニス・マツーエフさんというかたがソロでピアノを弾いているもの。いやはや、もうすごい迫力である。

こういうのを見せつけられると、つくづくピアノって体格のよい男性のほうが有利だな、と思ってしまう。最後のヒジ鉄もすごくって、聴衆はもう、やんやの喝采である。

 

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どんなふうにも料理できる?「私のお気に入り」

 

映画「サウンド・オブ・ミュージック」とは

初めて映画「サウンド・オブ・ミュージック」を観たのは、小学生のとき、のちに阪神淡路大震災で倒壊してしまった、神戸新聞会館大劇場(現:ミント神戸)でだった。

その時、立ち見でみたのだが(当時は比較的、立ち見が多かったように思う)、いっぺんに主役のジュリー・アンドリュースの美声の虜になり、サウンドトラックのLPレコードを買ってもらって、何度も何度も繰り返し聞いた。

この映画のなかで、「ドレミの歌」はペギー葉山さんが、日本語で歌って、日本でも大ヒットしたと記憶している。しかし、私が気に入ったのは、「ドレミの歌」よりも、「マリア」「すべての山に登れ」、「ひとりぼっちの羊飼い」、そしてこの「私のお気に入り」(My favorite things)だった。

この歌が歌われるシーンが、どういうものかというと、

修道院から家庭教師としてトラップ大佐一家にやってきたマリア。母親のいない大佐の子ども7人はマリアを慕い、雷の夜も怖がってマリアの寝室にやってくる。

そんな子供たちに、「ハチに刺されたとき、犬にかまれたとき、イヤなことがあったとき、そんなときは自分の『お気に入りのもの』を想像するといいのよ」とマリアは歌う。

 

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連弾で「私のお気に入り」を弾いた

サウンド・オブ・ミュージック」を皮切りに「メリー・ポピンズ」「マイ・フェア・レディ」と、ミュージカル映画に夢中になった私だったが、その後、ミュージカル映画も下火となり、私の夢中の対象もビートルズに取って代わってしまったため、「私のお気に入り」のことをすっかり忘れてしまった。

だから、今年の1月の発表会で、「連弾で『私のお気に入り』を弾きませんか?」と先生からご提案があったときは、懐かしさでいっぱい、ステージでピアノに向かったときには、本当に感無量だったことよ。

おまけに発表会会場の「里夢」はかつて住んでいたマンションのちょうど真向いだったしね。

 

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チリコンカン味の「私のお気に入り」

「私のお気に入り」はジャズのスタンダードとしても有名だ。その功績はひとえに、ジャズの巨人、ジョン・コルトレーンによるものだと思われる。

彼が、「私のお気に入り」すなわち「My favorite things」というアルバム、を発表したのは、1961年で映画の「サウンド・オブ・ミュージック」の1965年の封切りより早いのだ。

つまり、コルトレーンは映画ではなく、ブロードウェイミュージカルに触発されて、この曲をジャズにした、ということになるのだな?

一般にコルトレーンは私には難解すぎることも多く、この「My favorite things」も、ジュリー・アンドリュースの歌とはひと味もふた味も違うなぁ、と感じる。

例えていえば、オリーブオイルで味付けしたビーンズサラダがチリコンカンになったようなものだ。私はチリコンカンは大好きだけれども、この場合はなぜか、オリーブオイルと塩こしょうで簡単に味付けしたビーンズサラダのほうを選びたい。

すまんな、コルトレーン

でもあなたの功績に敬意を表して、あなたの「My favorite things」も忘れずにご紹介しておくよ。

 

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