夢でささやくピアノ

クラシックピアノとジャズピアノの両立を目指す、ねむいゆめこの迷走記録

ドビュッシーの「夢」は「夢想」のほうがよくないか?

クロード・ドビュッシー(1862-1918)

ドビュッシーの「夢」を発表会で弾くかも?

発表会の曲選びで、ウェーバーの「舞踏への勧誘」を目論んでいたところ、弾きにくい箇所があるので放り投げたことは、数日前記事にした。

kuromitsu-kinakochan.hatenablog.com

で、これをやめたら何を弾くのか、という話になるのだが、現在のところ、白羽の矢をたてたのは、ドビュッシーの「」(原題:rêverie)である。

これは数年前、「けっこうやさしんじゃない?」と思い、自主練していた。

しかし結局、レッスンにもっていかなかったのは、当時の先生から「ドビュッシーにばかり偏るのはよくない」と言われたことと、ゆっくりめのテンポでどこを盛り上げていいかわからない曲想のため、聞いてくださる人を退屈させない自信がなかったためである。

「夢」と「夢想」の2通りの邦訳

実は前からこの曲で気になっていたのは、まず邦訳である。

」と「夢想」の2通りがみられ、場合によっては「夢」(夢想)と表記されている場合もある。

ところで、「夢」のフランス語の直訳は「le rêve 」である。

しかし原題の「rêverie」と、「夢」の直訳である「rêve 」に関連性があることは、特にフランス語を習ったことのない方でも、ちょっと見ただけで察しはつくだろう。

でも実際、「rêverie」(レヴリー)と「rêve 」(レーヴ)はどう違うのだろう?

ここはやっぱり手っ取り早く、仏語ネイティブの夫ちゃんに聞いたほうが早い。

「rêverie」と「rêve 」の違い

「ねえ、『rêverie』と『rêve 』は意味としてどう違うの?」

すると彼は即答せず、数秒してから言った。

「『rêve 』は寝ながらみる夢のこと。

『rêverie』は、ぼやーーっとしているときに、なんかいいことないかなぁ~と思っているみたいなんだけど、寝てはいない」

それからいいことを思いついた、というように、

「例えば、数学の時間、先生のいうことがまったくわからないで、ボヤーっとほかのことを考えている生徒がいるでしょ。

これはまちがいなく『rêverie』」

これは私にあてこすっているのだ。

私が中学生の因数分解で落ちこぼれたのとは違い、彼の大学での専攻は数学なのだから!

「あ、そう。よくわかったわ、ありがとう」

その違いはよぉくわかったが、けれども「rêverie」と「rêve 」は、どちらも私のおはこ、十八番、得意技ではないか!

夢見るゆめこは母に笑われた

前にこのブログにも書いたかもしれないが、私は昔から10時間くらいはノンストップで眠れるロングスリーパーである。

そして毎夜毎夜、数えきれないぐらいの断片的な夢を見るのだ。

なおかつ、小さい頃からぼんやりと空想にふけるのが大好きだった。

あるとき、母がぼんやりしている私をみて、

「何してるの?」

と聞いた。

私は

「夢みてんねん」

と言ったのだが、信じられないことにこの答が大うけし、母は抱腹絶倒したのだ。

つまり私は「ぼんやりと考え事をしている」と言いたかったのに、子どもの語彙では説明できず、母は文字通り、私が眼を開けて(起きているのに)、夢をみているのだ、と誤解したのだ。

ああ、子どもはずっと深いところまで考えているのに、それを理解できない大人のなんと多いことか!

つまりね。

「rêverie」と「rêve 」の区別もつけず、いきあたりばったりに邦訳をつけるのは、よろしくないんじゃないか、ということをいいたかったのだ。

 

テンポが速くないと面白くないから諦めた曲

ベートーヴェンの「ロンド・ア・カプリッチョ ト長調作品29」

きのう、手が届かない箇所がある曲は遠慮したいと書いたが、これに勝るとも劣らぬ割合で、できれば避けて通りたいのが、テンポの速い曲である。

もっともすべてのピアノ曲が、指定速度にならって弾かれるべきとは思っていない。

しかしやはり、テンポが速ければ速いほど、その曲の魅力が燦然と輝く曲というのはあると思う。

そのなかのひとつが、ベートーヴェンの「ロンド・ア・カプリッチョ ト長調作品29」(俗称:失くした小銭への怒り)である。

どんな曲かというと、ご存じないかたも多いようなので、以下にWikiの説明文を引用させていただく。

ベートーヴェンの偉大な作品群の一つというわけではないが、聴衆受けがするため、たびたび演奏されている。冒頭から急速なト長調の進行で始まる。ロンド形式のため、途中でト短調ホ長調など従来どおりの転調展開をする。2/4拍子で速度が速く、右手部もが広い音形で展開するので演奏は難しい。節度ある演奏と奇想曲の曲風の両立が奏者に求められる。

アリス=紗良・オットさんによる模範的な演奏

この何曲を軽々と弾いていらっしゃるのが、アリス=紗良・オットさん。

すばらしい演奏だと思う。

www.youtube.com

フランス語放送で使われていたロンド

ところでこの、万人に知られているわけでない曲を、どうして私が知っているのか?

それはフランス語放送、Radio Classique に「Des Histoires en Musique」(音楽のお話)というすばらしいポッドキャストがあり、その中の一話、「Pourquoi le chat n'aime pas la souris ?」(どうして猫はねずみが嫌いなのか?)で、このロンドがBGMとして使われていたからである。

これはもともと、子供向けの番組ということだが、フランス語学習者には大変ためになる。

フランス語学習者でクラシックファンなら垂涎の番組なので、できればYouTubeにアップして、字幕もつけてほしいのだが。

でもそういうのがないのが、フランスらしいというか何というべきか・・・

www.radioclassique.fr

私の遊び計画はこのように頓挫した

今から5-6年前、このお話に夢中になった私は、全文をディクテ(書き取り)し、わからないところは当時習っていたフランス語の先生と、夫ちゃんの助けも借りて完成させた。

そしてできあがったのを、丸暗記したのだ!

それは私の壮大な遊び計画の一環だったのだ。

別に誰に聞かせるわけでもないのだが。

ただ、自分のフランス語朗読にあわせて、自分で弾いた「ロンド・ア・カプリッチョ ト長調作品29」を二重録音すれば、さぞかし面白いだろう、と思ったのだ。

が、しかし・・・

ああ、この曲はあまりにも難しすぎた!!

では、「Pourquoi le chat n'aime pas la souris ?」(どうして猫はねずみが嫌いなのか?)のあらすじは以下の通り。

昔むかし、ねずみは腕のたつ仕立て職人で、ネコはその重要な顧客だった。

冬も近くなったある日、ネコはふかふかの布地を持参して、ねずみに「この生地でオーバーをつくってほしい」と頼んだ。

ねずみは引き受けたが、まずその生地のふわふわしておいしそうなのがたまらず、誘惑に駆られて、その生地を少しずつ食べてしまったのだ!

一方、いつまでたってもオーバーができあがらないことに業を煮やしたネコは、ねずみが生地を食べてしまったことを突き止め、怒り心頭に発し、ねずみを追いかけて食べようした。以来、ネコはねずみの天敵となったのである。

 

弾きにくい音のためイヤになった「舞踏への勧誘」

私が人様の前で弾かないほうがいい曲

きのう、着るものを選ぶのと同じように、弾くものも、自分に似合いそうなものを取捨選択して弾いてもいいんじゃないか、ということを思いついた、ということを書いた。

ところがなぜか着るもののことで記事が終わってしまい、自分でも妙にヘンテコリンな記事になってしまったなぁ、ときょう読み返してみて思った。

肝心なのは、どういう曲が自分にあっている、またはあっていないか、ということだったね。

こういう場合、あっていない曲をピックアップしたほうがずっと早い。

つまり、私の場合、あっていない曲=挑戦するのはいいが、人様の前では弾かないほうがいいと思うのは、

  • 手が届かない音がある曲。
  • アレグロ、もしくはそれ以上にテンポが速い曲(指がまわらん)

ということになる。

弾きにくさのため「舞踏への勧誘」はお蔵入り

今年の2月、9月の発表会ではウェーバーの「舞踏への勧誘」を弾くつもりであることを記事にした。

kuromitsu-kinakochan.hatenablog.com

以来、人知れず練習していたのだが、どうしても弾きにくい箇所があり、たぶんこの曲はお蔵入りになりそうである。

その箇所は↓のところ。

ミソミ、レファレ、ドミド、という最大1オクターブの開きは、できないことはない。

しかしあいだにソ、ファ、ミという音がはいると、とたんに弾きにくくなるのだ。

先生によると、

「ドとミを弾くために、最初からわっかのように指を形作ってから弾けば、弾けるようになります」

ということだったが、指の準備をしていても、小指が隣の音をひっかけたり、とにかく余計な音が混じって非常に汚いのだ。

だからといって、この箇所をきれいな混じりけのない和音で弾くために、グッとテンポを落とすのもヘンだよね?

そう思いません?

解決策を試みてみたけれど

私が試みた解決策は以下のとおり。

  1. アルペジオでばらけさせて弾く。
  2. 左手の和音はペダルにまかせて、右手部分のミレドを左手で弾く。

このうち、1はばらけさせるとさらにそれでテンポを食ってしまい、時間がかかる。

また2については、先生によると「それもあり」とのことだったが、いろいろなかたの演奏動画を拝見してもそんな弾き方をしているかたはいない。

となると、やっぱりずるをしているような弾き方に思えて、いやだな~と思えてきた。

悪魔がほかの曲にせよと囁く

しかしウェーバーさんはどうしてこういう音の並びにしたのだろう。

同じCの和音にするなら、ミドミのほうがずっと弾きやすい。

3の指の長さが弾きにくさを緩和してくれるからだろう。

ああ、ジャズだったらなぁ。

ミドミ、レシレ、ドソドと弾いても誰も文句は言わないし、気さえつかないだろう。

だってC / G / C の和音であることには、違いはないのだから。

でもそこが作曲者のウェーバーさんの意図とはかけ離れているから、ダメなんだよね。

というわけで、

「そんなムリして指のあいだを拡げるよりは、ほかの曲にしたらええやん」

と悪魔が囁くわけなのだ。

 

何を弾くかと何を着るかは似ているかもしれない

2012年のフランス映画「タイピスト!」(原題:Populaire)

コロナで寝ながら思いついたこと

コロナで発熱、悪寒、咳、頭痛に苦しんだ約2週間、私はほとんどベッドで横になっていた。

そして横になっていた時間の約70%は本当に寝ていた。

自分でもどうしてこんなに寝られるのか、不思議だったくらいだ。

思うに、鎮痛剤のロキソニンには副作用として眠気を催す効果、というのがあるからかもしれない。

とにかく私は2-3時間をサイクルとして、こんこんと眠り続け、むくっと起きてはトイレに行き、水分を撮り、体温を測ってメモ書きし、また布団に潜り込むということを繰り返した。

きのうも書いたように、ピアノが弾きたい、とはまったく思わなかった。

がしかし、ピアノの練習についてちょっと思いついたことがあったので、忘れないように書いておく。

クラシックピアノの選曲と何を着るかの相似性

ピアノ学習者はどのように選曲しているのだろうか?

思うに、難易度の低いものから高いものへ、特定の作曲家に偏らないよう、まんべんなく、あらゆる時代様式を網羅するように学習しているのではないだろうか?

もちろんこれは、音楽という芸術に親しむにあたって、かくあるべき王道であると思う。

これを着るものに例えて言えば、

スーツ、ワンピース、パンツ、フレアースカート、ティアードスカート、ミニスカート、クロップドパンツ、ワイドパンツ、スキニーパンツ、Tシャツ、カットソー、オーバーオール、ロングドレス、カクテルドレス・・・

をとっかえひっかえ着ているようなものではないだろうか?

しかし人間だから、当然、似合わないものというものもある。

スーパーモデルならいざ知らず、普通の人は意識的、無意識的であるにしろ、自分がいちばん自分らしく見えるものを選んで着ているのではないだろうか?

人の体型はさまざまである。

背の高い人、低い人、いかり肩、なで肩、はと胸、でっちり、短足・・・

それらをうまーくカバーしつつ、自分の顔色に映える色を選んで組み合わせればいいのであって、なにも体型の難点を誇示するような服を着る必要はないはずである。

もっとも、どうしても、「この服が着たい!」と思えば体型がどうの、年齢はどうのと言わず着ればいいのだ。

クラシックピアノの選曲も、洋服と同じで、自分の演奏がいちばん「まし」に聞こえる曲を選んだほうがいいのではないだろうか?

ましてや、私なんぞ、六十路をはるかに過ぎ、自分の愉しみのためだけにピアノを弾いているのだから。

本当は50年代のファッションが大好き!

ところで私がふだん何を着ているか、というと、夏はTシャツにパンツ、冬はセーターにパンツ、という判で押したように同じスタイルである。

しかし私にだって、もっと違うものが着たい、という欲求がないわけではない。

実は、私は50年代のポップレトロなファッションが大好きなのだ。

このファッションがよく表れているのが、2012年のフランス映画「タイピスト!」

(原題:Populaire)。

あ、でも一般的には、オードリー・ヘップバーンが「麗しのサブリナ」で見せたファッションが50年代ファッションの典型と言われているのかもしれない。

www.youtube.com

自分の技術力にみあったピアノ曲

でもねぇ、私がいくら50年代ファッションが好きだと言っても、こういうのは今、どこに売っているのだろう?

見かけないなぁ。

それにもうすぐ70に手が届こうかというばあさんが、こんな落下傘スカートやパフスリーブのワンピースを着ていたら、ちょっとギョッとしないか?

人目を気にするわけではないが、自分を客観的にみるとぞっとする。

だからピアノの曲も、自分の技術力にあったものを弾いたほうがいいのではないか、と思い至ったのだ。

 

大腸がんで逝った中村紘子さんとは比べ物にならない

中村紘子氏(1944-2016)

ピアノが弾けなかったコロナ期間

コロナで苦しんでいた約2週間、ピアノはほとんど、というかまったく弾かなかった。

たしか発熱の最初の2、3日間は、がんばってなんとか弾こうとした。

多分、それはまだ今までの体力が残っていたせいだと思う。

ところが何も食べられなくなってから数日たつと、余剰の体力もまったくなくなり、

「ピアノなんかどうでもええわ」

というか、ピアノの前に座る気力さえなくなったのだ。

たかがコロナで・・・である。

ここで私が再三思い出したのが、2016年に72歳という若さでがんで逝った、ピアニスト中村紘子さんのことである。

中村紘子さんのピアノ愛はがんに負けない

www.nikkei.com

上記の記事にもあるように、中村紘子さんはみずからが大腸がんであることを公表していた。

そればかりか、

(引用始め)2014年2月の手術では、がんはすべて取り切れず、治らないことを自覚しながら様々な治療を受け、その副作用に悩まされながらも、「がんが治っても、ピアノが弾けなくなるのは困る」と、天職であるピアノ演奏を継続していた。(引用終わり)

らしいのだ。

がん治療の副作用ってこわいんでしょ~

痛いんでしょ~

苦しいんでしょ~

そのなかでもピアノを弾き続けるなんて、私には考えられない精神力である。

と同時に、これまではピアノ一筋で生きてきたのだから、(病を得たこれからは)ちょっと違う人生を送ってみたい、という発想はまるでなかったのだろうか、と疑問も残る。

やはり天才の考えることは凡人とはまるで違う、と言わざるを得ない。

キャサリン妃の長い髪よ、永遠に

同時に先日、がんを公表したばかりのイギリスのキャサリン妃のことも思い出した。

最近はまったくニュースを追っていないのでわからないのだが、がん治療のため、妃のみごとな長い髪が失われるようなことがあったらどうしよう、と心配したのである。

しかしあの長い髪は治療中はさぞかし邪魔になるだろう。

でも下々の者とは違って、妃の場合、毎日シャンプー、ドライヤーで乾かしてくれるひとがいるだろうから、邪魔とは感じないのかもしれない。

いやそれでもなぁ、と実にしょうもないことを堂々巡りのように考えていたものだ。

ゆっくりと休憩だらけのピアノ再開

ようやくモノが食べられるようになった2週間後、やっとすこしピアノを弾いてみようかな、という気持ちになってきた。

本当は衰えた指の筋力を取り戻すために、ハノンなどの基礎練習をやったほうがいいのかもしれないが、残念ながら今はそれも耳が受け付けない。

食べられなくなって弱った胃腸とおなじく、耳も許容範囲が一段と狭くなってきているようで、美しい旋律しか聞きたくないのだ。

それで弾きなれたバッハの曲を、ゆっくり~ゆっくり~片手ずつ弾いている。

そして10分弾けば休憩。

これを5回くらい繰り返せばもうへとへと。

体力が戻るのって、ずいぶん時間がかかるらしい。