神戸市立博物館で開催の「よみがえる川崎美術館」展
12月2日。体調を崩すかもしれないから、この時間帯なら絶対見るまい、と心に決めていたワールドカップの日本vsスペイン戦だが、夫が小さな音でかけていたテレビ音で目が覚めてしまった。
2対1で日本が勝っている、とのことだったから、そのまま見続けてしまい、勝ったからよかったようなものの、ボーッとしていたアタマのままで、予定していた神戸市立博物館での「よみがえる川崎美術館」展を見に行った。この日を逃せば、最終日を含めて混雑が予想される土日になってしまうからである。
関西に住んでまだ日が浅い夫は、川崎と言えば、横浜のお隣の川崎市を連想するらしい。しかし私はさすがに神戸生まれなので、川崎といえば、川崎造船、川崎重工の、企業名としての川崎である。
ところが、創始者の川崎正蔵が美術品コレクターであり、日本最初の私立美術館を創設したひととは知らなかった。
そして21歳で亡くなった美人作家、久坂葉子が川崎正蔵の曾孫にあたるとは知らなかった。今回は知らなかったことがわかったら、さらに知りたいことがでてきた、という記事である。
川崎美術館はなぜ消えたか
川崎美術館とは、造船業で財を成した川崎正蔵が1890年、神戸に開館した日本初の私立美術館だ。
存在した場所は今でいえば、JR新神戸駅付近の布引あたりで川崎の邸宅、約6000坪の一角だったそうだ。
6000坪、と言われてもピンとはこないが、東京ドーム一個分にあたるそう!
美術館は今のイメージにある、いつでも誰でも入れる場所ではなく、決まった期間に招待客、(つまり名士のみ?)が入れる限定公開だったようだ。開館式には花火も打ち上げられて相当な賑わいだったようだ。
ところで私が興味があったのは、川崎正蔵目利きの美術品もさることながら、川崎美術館がいかにして消失したのか、なのだがその記述は展覧会では多くはなかった。
しかし、その原因は大きくいって次の3つに集約されるようである。
これらの出来事を小説で追体験するには、1は玉岡かおるの「お家さん」、2はもちろん、谷崎潤一郎の「細雪」、3は野坂昭如の「火垂るの墓」を読んでみるのが一番いいのではと思う(3はアニメもいいよ)。いつかこのブログでも書きたいとは思うけれど書けるかなぁ~
ちなみに、私の母はこれら3つの昭和史を全部、阪神淡路大震災というおまけまでつけて神戸で体験し、令和にはいる少し前に亡くなった。まことにもって「お疲れさま」としかいいようがない。
川崎正蔵の家族について
川崎正蔵というかた、財閥を築き上げ、76歳で亡くなったのだから当時としては大往生の部類にはいるかと思うのだが、どうも家族運には恵まれなかったのかも?
というのは長男は乳児のときに死亡、次男、三男も若くして病死なのだ。
そして曾孫にあたる作家の久坂葉子(本名:川崎澄子)は4度の自殺未遂のあと、1952年、21歳のとき阪急六甲で鉄道自殺を遂げている。
久坂葉子は「ドミノのお告げ」で1950年の芥川賞候補となり、遺書的作品の「幾度目かの最期」は今では青空文庫で読むことができる。
死に急いだ久坂葉子
私のような繊細でない神経の持ち主からみると、いくら没落していく資産家の家に生まれた重圧があったとしても、なんでそんなに死に急いだのかさっぱりわからない。それも4度の自殺未遂とは、よほど死神に魅入られたのか?
そんなに急がなくてもひとはいずれ死ぬのに。それも多くの人が六甲山登山へ向かう楽し気な雰囲気に溢れた阪急六甲で!(阪急六甲は私の子ども時代のホームグラウンドである)。
男性問題もいろいろあったようだから、ご家族のなかで誰か彼女をヨーロッパか、アメリカへ留学させることを考えたかたはいなかったのかなぁ?
かつてのような贅沢はままならぬ川崎家の財政状態だったかもしれないが、それでも庶民とは桁違いの資産を持っていたはず。海外でいろんな男性をみたら、日本でのややこしげな恋愛問題も憑き物が落ちたように、色褪せてみえたのではないか、と想像するのだけれど・・・
それもこれも私が生まれる前のことなので、ご冥福をお祈りするだけにしよう。