
卒業後50年で初めて参加の同窓会
初めて高校の同窓会に参加した。
在籍した学年の仲間うちでは、今までもう4回も同窓会を開催していたのに、そのうち一度も私は参加したことがなかったのだ。
なぜか?
当時、故郷から遠く離れた首都圏に住んでいたからというのは、ほぼほぼ言い訳。
なにより高校時代は私にとって、暗黒の時代だったからだ。
運動能力に優れていたわけでもないのに、バスケット部に所属していたから、毎日の部活でへとへと。
授業はまったく面白くなく、理系科目の時間は寝る時間と決めていた。
自称進学校だったし、先生たちは昔気質だったから、校則などもかなり厳しかった。
私は遅刻が多い、授業中に頬杖をついていた、下校時に菓子パンを食べながら歩いていた、等でしょっちゅう叱られていたと思う。
そんなわけで、高校は思い出したくないところのはずだったのに、友人から同窓会に誘われたとき、「行ってもええよ」と答えたのはなぜだろう。
きっとかつての同級生がどんな姿になっているか、怖いものみたさだっからにちがいない。
吊り下げ名札の裏側はあの頃の自分
会場ホテルに到着すると、受付に幹事とおぼしき数人のかたがいらっしゃった。
だが誰も知らないので、引きつった笑みを浮かべたまま、名前を言う。
すると表に名前(旧姓のみ)、裏にテーブル番号と卒業アルバムからスキャンした個人写真がはいった吊り下げ名札を渡された。

ところが会場につぎつぎにやったきたひとの名前がわからないのは、私だけではなくみな同じらしい。
みんな相手の名札をひっくり返して名前を確認し、現在の顔と見比べて、しばらくは絶句している。
「えーーと、○○君?」「ひょっとして○○さん?」
お互いの記憶が一致していればよいが、どうしても思い出せないこともある。
むこうもいっしょだろう。
そういうときでも、ただ笑って、
「あーー! 懐かしい!!」
といっておくのだ。
しかし卒業から50年でこのざまだと、将来、認知症がはじまるとどうなるのだろう?
過去の自分に出会うタイムスリップ
お互いの名札ひっくりかえしにも慣れてくると、もうみんなしゃべることしゃべること。
料理や酒に手もつけず、しゃべり続けているなんて、ひょっとしてみんなそんなに毎日が孤独なん?
そして互いに自分の覚えている思い出話、相手の印象を話し出す。
- それによると、私はスポーツ少女だったそうだ(証言1:今の自分からは想像もつかない)
- 歌がうまかった(証言2:これも不思議だし、誰もピアノが弾けたとは言ってくれないのが悲しい)
- みんなで公園で遊んでいたら、私の父もやってきてゴルフの練習をはじめた(証言3:まったく身に覚えがない)
そうか、同窓会って昔の級友に会うというよりも、過去の自分に会うことでもあったんだね。
すると不思議だ。
あれほど思い出したくなかった高校時代なのに、けっこういいところだったように思えてきたのだ。
楽しめなかったのは、きっと私のものの見方が狭かったのだろう。
今まで話したこともない人達も話してみると、意外に話があうことにも気がついた。
それはきっとあの日あのとき、同じ空気を吸った連帯感からくるのかもしれない。
同級生ってこんなに気楽な存在だったことを改めて思う。
ハイ・ファイ・セットの「卒業写真」
このブログで、卒業写真を断捨離してしまったらしいことを書いたが、どうやらそういうひとは私だけではないらしい。
kuromitsu-kinakochan.hatenablog.com
スマホに強い幹事さんのひとりが、そういううっかり者のために、過去の卒業写真や修学旅行の写真をライングループのアルバムにアップしてくれていた。
これで私も「悲しいことがあると」いつもアルバムが開けるのだ。
幹事さんに感謝。
世の中の技術革新に感謝。
そしてあの「卒業写真」を、きょうはハイ・ファイ・セットで。