「ピアノの練習音など聞けたものではない」は先生の言
きょうの記事のタイトル「ピアノの練習音など聞けたものではない」を言った人は誰か?
私ではない。
先生が言ったのだ。
私は「えーーーーー! 先生でも!」
と仰天したので、忘れずに書いておくことにする。
ことの起こりは今日のレッスン、ナザレーの「オデオン」の連打部分である。
前回は↓の楽譜部分の「シシシ」において脱力が充分でない、ということで何回も繰り返し練習をさせられた。
連打部分の脱力不十分で特別練習
今回はなぜか「シシシ」に関してはお咎めなしで、オクターブに近い間隔で手を拡げて連打するところが脱力不十分ということで特別練習になったのだ。
特別練習とは、まず先生が連打部分を弾く。
先生の指が離鍵するやいなや、私が先生の手首を下から上にはねのける。
もし先生の脱力が不十分だったら、はねのける役の私は抵抗を感じるはずである。
ところが先生は充分脱力できているので、私はただ先生の手首をふわりと持ち上げているだけなのだ。
「力が必要なのは打鍵するときだけで、あとはふにゃふにゃの手でいいんです」
ピアノの鍵盤を力強いタッチで弾く手とふにゃふにゃの手。
なんか私には矛盾するように感じるんだけどなぁ。
ベートーヴェンバイオリンソナタ4番
もしテンポがゆっくりであれば、離鍵して手が上にあがったとき、手を若干すぼめるようにしたら脱力できるらしい。
しかしテンポが速くなれば、手をすぼめるヒマはないので、そこをどうするかということになる。
しかしピアニストというのは高速テンポで弾いた時も、離鍵の0.何秒、または0.0何秒か後には脱力できていないといけないそうだ。
先生はその例として、今アンサンブルの稽古をされているベートーヴェンのバイオリンソナタ4番の連打部分を弾いてくださった。
見ている私は、
「ひぇー! これは一生かかってもできへんわ」
と思っただけで脱力のヒントは得られなかったけど。
ところでこの曲バイオリンソナタ4番は「クロイツェルソナタ」とテイストが似ていて、「クロイツェルソナタの下書きみたい」と先生は笑っていた。
よし、じっくり聴いて見よう。
私はなぜか今やベートーヴェンのピアノ曲で弾いてみたいと思う曲はゼロなのに、バイオリンソナタの「春」とか「クロイツェルソナタ」は寝る前に聴きたくなるほど好きなのだ。
忍耐心と克己心のピアノ練習
そうこうしていると突然、先生が、
「いつもピアノの音が聞こえてくるおうちっていいですねぇ、とか言われない?」
私は首をかしげて、ちょっと怪訝そうに
「ええ」
と言うと、
「あれ、絶対何も知らないひとがいうことだよね!
ピアノの練習音なんか聞けたものじゃないから。
そりゃ最初からCDみたいにダーッと弾ければいいわよ。
でもそうじゃないもん。
おんなじ音を繰り返し繰り返し、もうノイローゼになるよね」
これを私が言うのなら何も不思議はないが、先生が言うのだから恐れ入った。
ああ、やっぱりそういうものなのか。
練習というか、修行というものは。
ピアノというか楽器というか、音楽をやっているひとはみな、すごい忍耐心と克己心にあふれたひとたちと思わざるをえない。