震災を体験したのは神戸にいたピアノちゃんだけ
阪神淡路大震災から30年という節目のためか、それとも現在兵庫県南部に住んでいるせいか、震災関連のニュースやTV番組を目にする機会がここ2、3日は多かった。
たぶんどっちも影響しているのだろう。
4年前までのように関東に住んでいたら、今ほど阪神淡路大震災に関する報道に接することはないのでは、と思う。
ともかくここであらためて地震のことを思い起こすきっかけが与えられたわけだが、神戸生まれの神戸育ちにかかわらず、私は震災を体験していない。
その数年前から関東圏で働いていたためである。
当時の住まいは賃貸部屋だったため、アップライトピアノであっても置くわけにいかず、ピアノは神戸の実家に置きっぱなしだった。
よって両親とも亡き今、震災を体験したのは、当時神戸に残っていたピアノちゃんだけになってしまった。
「怖かったよう~~」
って言ってる?
いや、彼女(彼?)は鍵盤を触らない限り、何も語らないのだ。
両親の話によると、地震の際、ピアノちゃんは2,3メートル前方まで吹っ飛んだそうだ。
もう数メートル飛距離が伸びていたら、寝ている両親を直撃したかもしれないが。
震災直後のモノが散乱した部屋の写真を見せられた時、「あれ~~!!」とビックリしたものだが、結局誰が片付けたのだろう?
両親しかいないよね。
考えてみれば当時、母は今の私とまったく同年齢で、父はすでに70代前半だった。
後片付けは大変だっただろう。
でも私は手伝っていないよ。
本当に役に立たない子どもである。
関西で地震は起きないと思っていた
基本、役には立たないが、それでも地震発生後ほどなく、姉といっしょに避難所にいるという両親を「救出」に出かけた。
東京から新大阪までの新幹線にはなんの問題もなかったと思う。
ところが阪急梅田駅の切符売り場はものすごい人混みで混雑していた。
今みたいにSNSなどの情報がなかったから、何もわからなかったけど、要領よく前のほうまで進んで切符をゲットした。
ところが阪急神戸線に乗り込んだのはいいものの、西宮北口までしか電車は通っていなかった。
それでしかたなく西宮北口で下車し、姉といっしょに神戸市東灘区の自宅を目指してテクテク歩いた。
今、地図をみれば10キロあまりで結構大変だったはずだが、まわりの建物がひっくり返っているのに気を取られて、あまり大変だったという記憶はない。
それからは幸い、無事だった両親に会えて、関東へ一緒に連れ帰って・・・という時系列になるのだが、なんだかんだというより、「神戸で、関西で、地震が起きるんや」という驚きが何よりも強かった。
だってそれまで絶対に関西では地震は起きない、と思っていたのは私だけではなかったはずである。
その証拠に、あの頃、全国各地でも震度3ぐらいの地震さえ、それほどなかったのだ。
いったいどうしてくれるねん。
ピアノがある部屋で寝るな!
さて震災の記憶があるからには対策をしているだろう、と思われるかもしれないが、なにかあったっけ?
ウチでは下の記事にあるような対策ならやっているが、それ以外のことは特に思いつかない、というよりないのでは?
ピアノの下に敷くインシュレーターは、私は防音対策のためだけ、と思っていた。
でもこれが転倒防止のための主要グッズらしい。
あとはピアノが置いてある部屋で寝ない、ということぐらいか。
これは何もピアノに限らず、重いもの、箪笥などの家具も入ると思う。
阪神淡路大震災の際、箪笥の下敷きになって亡くなった女子大生がいたことをテレビで知った。
本当にお気の毒に。
こういうのを見ると、私はたまたま運がよかったのかなぁと考えさせられてしまう。