なぜわざわざ映画館まで「国宝」を見に行ったか?
映画館で映画をみるのはひょっとして7-8年ぶりかもしれない。
いつもは夫ちゃん自慢の「ホームシアター?」で録画済みのNHK BS映画をみるのがウチの習慣なのだが、きょうは夫ちゃんを連れて観客動員数が1000万人突破という話題の「国宝」を見に街まで行ってきた。
なぜこの映画は私をそこまで駆り立てたのか?
第一にジャズ友からの以下のラインである。
「チョロローンとピアノを練習したぐらいでは『芸』にはならんわな」
ということばが身に沁みたからである。
ちなみに「芸」というのは私たちのジャズ師の口癖である。
ジャズ師によると、人様を感動、びっくりさせてこそ「芸」であり、ひとりで弾いて楽しんでいる、というのは「芸」にならんそうな。
二番目には、ウチの夫ちゃんの偏見をぶち壊したかったからである。
日本に住んで25年、日本語の読み書きにまったく不自由しないのに、彼は歌舞伎の女形はLGBTがするものだと思い込んでいる。
彼はLGBTが大嫌いで、最近の欧米映画には必ずLGBT愛が盛り込まれているのが不満でしかたがないのだ。
私は歌舞伎にはまったく不案内だが、女形=LGBTというのはちょっと違うと思うけど?
それをなんとか彼に証明したかったのである。
映画「国宝」のあらすじと予告編
映画「国宝」のあらすじについては多数のサイトがとりあげているので、ここでは映画.comのを引用させていただく。
任侠の一門に生まれた喜久雄は15歳の時に抗争で父を亡くし、天涯孤独となってしまう。喜久雄の天性の才能を見抜いた上方歌舞伎の名門の当主・花井半二郎は彼を引き取り、喜久雄は思いがけず歌舞伎の世界へ飛び込むことに。喜久雄は半二郎の跡取り息子・俊介と兄弟のように育てられ、親友として、ライバルとして互いに高めあい、芸に青春を捧げていく。そんなある日、事故で入院した半二郎が自身の代役に俊介ではなく喜久雄を指名したことから、2人の運命は大きく揺るがされる。
この青春時代の喜久雄と俊介が微笑ましかったなぁ。
ふたりは父親の半二郎から徹底的にしごかれるが、それを悪意のあるものとはまったく受け取っていない。
特に喜久雄にいたっては、稽古はいくら厳しくても楽しくて仕方がなく、
「寝てても稽古したい」というセリフに圧倒された。
私、寝ててもピアノ弾きたい?
いや、全然そんなことはありません。
喜久雄と悪魔の取引とは?
芸に精進する喜久雄が祇園の芸妓とのあいだにできた娘を連れて、神社にお参りする場面があった。
小さなお稲荷さんに手をあわせる父の喜久雄をみて、
「なにお願いしたん?」
と問う幼い娘、綾乃。
彼女にむかって喜久雄は言う。
「悪魔と取引してたんや。
日本一の歌舞伎役者にさせてください。
それ以外はなんにも要りません、てな」
そうか、これは悪魔との取引なのだな。
人間、何か欲しいものを手に入れようと思えば、何かを諦めなければならないのが定石。
例えばお金が手に入れば、健康を失う。
名声が手に入れば、家族関係に亀裂がはいったり、若さを失うとかいったことだろう。
この「悪魔の取引」のエピソードで胸騒ぎを覚えたのだが、案の定、それまで順風満帆に見えた喜久雄の歌舞伎人生がターニングポイントを迎え、疾風怒濤の荒波に揉まれることになる。
渡辺謙、寺島しのぶという豪華脇役
この映画の主役、喜久雄役の吉沢亮、俊介役の横浜流星が素晴らしかったのは言うまでもない。
ただ同世代としては彼らの父役、渡辺謙の演技が心に残った。
なんといっても私にとってはNHK大河ドラマの「独眼竜政宗」以来、おなじみの名優なのだから。
渡辺謙は大河に出演後、大病を患ったが復帰、ハリウッドにも進出。
ミュージカル「王様と私」の王様役では日本人としては達者な英語も、専門家によると批判されるのでは、とずいぶん気をもんだ。
でもそれらをこなし、もう俳優としてはアメリカに舞台を移したのかと思いきや、歌舞伎の世界での大役である。
なんと演技の幅の広いこと!
そしてもうひとりのすばらしい脇役は俊介の母を演じた寺島しのぶ。
こちらはもう、父が尾上菊五郎、母が富司純子という歌舞伎界のサラブレッド。
映画「オー・ルーシー」ではアメリカ人の英会話講師に恋をしたOLを演じて大いに笑わせてくれたが、「国宝」ではまさにはまり役。
これもやっぱり「血」のなせる技なのだろうか?
最後に、ウチの夫ちゃんのこの映画についての感想:「女形がLGBTでないことがよくわかってよかった」とのこと。
しかし外国人には、よほど日本に興味がないとこの映画の理解は難しいだろう、というのが彼の見方なのだが、どうかな?
「国宝」は世界を制覇するだろうか?