どうして「真昼の死闘」なのか?
またしても納得のいかない邦題である。
「真昼の死闘」だって!
全部ちゃんと見ていたけれど、クライマックスのメキシコ革命軍とフランス軍の戦いは夜なんだけど?
どうなってるんだろうね、この邦題の付け方?
原題は 「Two mules for Sister Sara 」だから、直訳すれば「尼僧サラのためのラバ2頭」となり、まさかラバを題名にするわけにいかないというのもわかるんだけどね。
あともうひとつ、違和感があるとすれば、サラ役を演じたシャーリー・マクレーンのアイメイク。
荒野を旅する尼僧としてはマスカラ(つけまつげ?)がすごすぎるんではないだろうか。
映画製作年の1970年頃ってたしかに、こういうメイクが流行したように思うけど、今見たら、「ちっこい目でもない西洋人がどうしてこういうメイクをするんだろう」と不思議に思う。
でもそのほかはよかった。
流れ者のホーガンを演じるクリント・イーストウッドはかっこいいし、メイクをけなしたが、尼僧サラ役のシャーリー・マクレーンはさすがのコメディエンヌぶりである。
でもこれ、西部劇?
流れ者と尼僧がそれぞれ独身の理由を語る
流れ者のホーガンは荒野を旅の途中、暴漢に襲われている尼僧サラを助けたことから二人の旅は始まる。
この二人、お互いにどうして結婚しないのか、愛する人と人生を過ごしたくないのか、と質問しあっている。
ホーガンの答えは、
「(結婚したら)酒やギャンブルをやめろといわれたり、金を貯めろと言われたり、ここが痛いあそこが痛いと愚痴を聞かされるのはまっぴらごめん!」(なるほど!)
またホーガンから結婚したことがないのか、と聞かれたサラは、
「私は違う人生を歩むことを選んだの」
イエス様に身を捧げたということならわかるが、だんだん見る人にもこの人、本当は尼僧なんかじゃないよね、ということがわかってくる。
そして最後、この二人は・・・
いやいや、ネタばれになるのでやめておこう。
バカなことをして責められたときにいうセリフ
映画中、気になるセリフがあった。
「everybody's got a right to be a sucker once」というものである。
直訳すれば、誰にだって一度は騙される権利がある、でいいのかな?
ということは、人間誰だって人生のうちには一度くらい、バカなことをやってしまうことがある、それのどこが悪いか、みたいな開き直り?
実例として「俺の人生の関心事は金だ」と言い放つホーガンにたいして、
サラは「だったらどうして戦争なんかにいったの?」と聞く。
ホーガンの答えが、「everybody's got a right to be a sucker once」
自分でも理屈にあわないことをやっちまったぜ、ということか。
またどうしてもこじあけられそうもない金網をぶち壊そうとするサラに、ホーガンは
「気でも狂ったのか」というが、サラの答えも「everybody's got a right to be a sucker once」。
だめかもしれないが、やるっきゃない、ということか。
なかなかいい表現だと思うのだが、日本語で似たような表現があるかどうかはどうしても思いつかない。
エンニオ・モリコーネの音楽が最高
この映画の冒頭から始まるのがエンニオ・モリコーネの音楽。
物悲し気な雰囲気の管楽器からはじまって、リズムを刻むギターの音。
ピッコロが鳥の鳴き声のように鋭くはいるほか、あれ、女声合唱の讃美歌みたいなのが。
これは尼僧役のサラを暗示したものか。
あと、フルート、バイオリン、そのほかよく出所がわからない音が入り混じって、まさに未開の西部にうごめく動物たちが合唱しているみたい。
いろんなことを想像させてくれ、そしてなぜか忘れられないテーマ曲だと思う。