「フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記」
1999年のNHKのドキュメンタリー、「フジコ~あるピアニストの軌跡~」で紹介されてから、フジコ・ヘミングさんに関する書籍が数多く出版されている。
YouTubeでの動画でも、スェーデン人のお父さんのこと、ピアノ教師で美人だったお母さんのこともよく紹介されているので、私もフジコさんに関するたいがいのことは知っている。演奏会にはいったことがないのに。
いや、一昨年だったか、演奏会の切符を予約していたのだが、コロナで中止になってしまったのだ。その代わりに、でもないのだが、「フジコ・ヘミング14歳の夏休み絵日記」を買って愛読書としている。
たいがいの本は図書館で借りて読んですましてしまう私だが、この本は借りずに買って本当によかったと思っている。なぜなら絵日記なので、そこに収められている挿画は、これからも自分のそばにずっとおいておきたい、と思わせるほど、魅力的なのだ。
昭和21年当時は旧仮名遣い、旧漢字が普通だったのか
絵日記は1946年夏のできごとが描かれていて、このときフジコさんは14歳、青山学院高等女学部の2年生だった。
日記をとおして記述が多いのは、
- 何を食べた、何を食べたい、など食べ物に関すること
- スカート、ブラウスなどを縫ったこと、直したこと
- 毎日のピアノのおけいこついて
なのだが、それらの多くが旧仮名遣い、旧漢字で書かれているのだ。つまり、昭和21年当時はほとんどの人がまだそういう書き方をしていたということだな。
たとえば、「お友達がいらした」の「い」は「る」によく似た旧かなが使われているのだが、昭和31年生まれの私でも、なぜその文章で今の「い」が使われていないのか、その用法の違いがまったくわからない。そう思えば、日本語の読み方、書き方の変遷の速さに愕然とさせられる。
フジコさんと弟のウルフ君
14歳のフジコさんは、弟のウルフ君とともに、いつもおなかをすかせながらも、毎日の生活の中で楽しいことを見つけていたようだ。居眠りしているお母さんの顔にヒゲを書いたり、しゃぼん玉で遊んだり、扇風機の風に喜んだり・・・きょうだいの仲の良さがみてとれて微笑ましい。
裁縫ができないと最悪だ
当時は食べるだけで精一杯だったから、着るものは自分で作るしかなかったようだ。フジコさんもお母さんも器用にブラウスを縫ったり、スカートの裾を直したり、お母さんにいたってはフジコさんの水着まで縫っている。この時代、裁縫ができない人は本当に困っただろうな。
私なぞ、中学生のときの家庭科の宿題で、パジャマを縫うのがあったが、泣きたいほど苦痛だった。
14歳でショパンエチュードはほとんど済んでいた
ピアノの練習については、さすがお母さんの薫陶を受けたとあって、14歳ですでにショパンのエチュード24曲のうち、15曲を済ませている。
疎開中はあまりピアノが弾けなかったので、指が動かなくなってしまった、と嘆いてはいらっしゃるけれど。
反して、私の指が動かなくなったのは、会社のせいだ。毎日、飯のタネと将来の年金のために通勤しているうちに、手が固くなってしまったのだ、といっても本当に言い訳にしか聞こえない。深く後悔するのみである。