「アラバマ物語」は映画も小説もすばらしい
小説と、その小説をもとに映画化された映画を比べれば、小説の完成度に軍配があがるのがよくあるパターンではなかったか?
世紀の大作、「風と共に去りぬ」だって主役の二人のインパクトの強さはあるものの、小説のほうが面白いし。
でも私は最近の映画、特に邦画をあまり見ていないので、単なる固定観念かもしれないが。
しかし、つい最近みた1962年のアメリカ映画「アラバマ物語」と、そのもとになった著者、ハーパー・リーの自伝的小説「アラバマ物語」は、どちらも甲乙つけがたい出来で私の固定観念をくつがえしてくれた作品だと思う。
映画と小説のわずかな違い
映画の「アラバマ物語」の紹介、あらすじなどでは、濡れ衣を着せられて告訴された黒人青年を弁護する、正義感溢れる弁護士、アティカス・フィンチを描くことから、アメリカに根強く残る人種問題に光を照らした、というようなのが多いのではないか。
小説でももちろんそうなのだけれども、しかしほとんど400ページにおよぶ小説のなかで、この裁判沙汰に割いたページ数は意外に多くない。
それよりも、多くのページが割かれていたのは、アラバマ州の田舎町で弁護士を営むアティカスの娘、スカウトの眼を通して描かれるアメリカ南部の人々の生活である。
濡れ衣を着せられる実直な黒人青年トム、黒人を弁護するアティカスに不満をもつ多くの白人男女、教育もなく職もなく平気でうそをつく白人の男、婦人の集会に出席するレディたち、スカウトやその兄の面倒をみる家政婦の黒人女性カルバーニア・・・
どの人々もさながら、「風と共に去りぬ」に出てくる人物の子孫かと思われるくらい、アメリカ南部の匂いがしそうだ。
主人公の少女、スカウトもまるでスカーレット・オハラから虚栄心を除いたらできあがるようなお転婆で勝気な少女で、彼女が兄や友達(モデルはトルーマン・カポーティ)と興じる遊び、冒険話がじつに微笑ましい。
裁判の場面は映画に軍配
この小説は1961年度のピューリッツア賞に輝いた作品で、アメリカでは学校のテキストにも用いられたほど有名らしいが、たったひとつ、裁判の場面は映画に軍配をあげたい。
論理的、かつ冷静に証人のウソを暴いていく弁護士のアティカス(グレゴリー・ペック)と平気でウソを並べ立てる狡猾な証人のやり取り。
そして断腸の思いで、自分の気持ちを語る黒人青年トム。
これらが目にも耳にも、はらはらドキドキ感を高揚させてくれる。
しいて難点をあげるとすれば、主演のグレゴリー・ペックが小説のアティカスに比べて格段にカッコよい、カッコよすぎる弁護士だ、ということだ。
でもこれはこれで、まあいいっか!
グレゴリー・ペックが美しく堂々としていたから、いつまでも弁護士アティカス・フィンチは「アメリカの良心」としてアメリカ人の心に残るのだろう。
このすばらしい演技にたいして、グレゴリー・ペックは1962年度のアカデミー主演男優賞を受賞している。
暮らしの手帖社は絶版
今回私が読んだ「アラバマ物語」は(ハーパー・リー著、菊池重三郎訳)図書館で借りたものであり、発行元の暮らしの手帖社では絶版となっているようだ。
なぜ絶版となっているのかはわからないが、この本は装丁が美しく、映画「アラバマ物語」のシーンの写真が5枚も収められている優れものである(2段組で印刷文字が小さいことから老眼の私には決して読みやすいものではなかったが)。
これがもう古本としか扱われないとなると、ちょっと残念だなぁ。
確かに翻訳では時代を感じさせるフレーズもあるにはある。
新訳が「ものまね鳥を殺すのは」というタイトルで出ているようで、こちらには目も通していないけれど、これからも多くの人々に読まれることを願わずにはいられない。