原作は放り出したのに映画は観た「蜜蜂と遠雷」
映画「蜜蜂と遠雷」の原作である恩田陸さんの同名小説は、2016年に直木賞と本屋大賞をダブル受賞している。
私はこれを以前、図書館でオンライン予約して借りたが、受付で受け取って「しまった!」と思った。
この単行本は500ページを超す分厚さで、スーパーの買い物といっしょに持つには、かさばりすぎたからである。
しかしなんとか持って帰って最初の数10ページを読んだが、「あれ、これ『ピアノの森』のパクリやん?」と呆れ、読み通すことなく早々に返却してしまった。
だからこの映画版もNHK BSで放映していたから、万が一のときのために録画しておいただけで、その出来にはまったく期待していなかった。
だってレビューが悪すぎるし・・・
なかには「このすばらしい原作をこんな映画にしたのは侮辱だ」
といったようなのもあった。
いや、厳しいなぁ。
私が監督だったら、これを読んでからしばらくは、落ち込んで立ち上がれないだろう。
ところがきょうのランチのおともに、何も他に見るものがなかったので、夫ちゃんにあらかじめ「評判はよくない映画だけど、いい?」と了解をとって観た。
そしたら・・・
いいじゃない、結構! どこがそんなに悪いんですか?
彼もじゅうぶん、楽しんだみたいだったよ。
映画「蜜蜂と遠雷」がけなされる理由が疑問
本当にこの映画がそれほどけなされる理由がさっぱりわからない。
映像がきれいで、俳優さんの演技もしっかりしていて、インタビューされるコンテスタントの表情だけを追ったカメラワークもよかったし、あ、もちろん音楽もね。
あるクラシック通というか、専門家からは、
- オーケストラがコンクールの曲目ではないブラームスの交響曲第1番を演奏するのは変だ
- オケの指揮者がコンテスタントにむかって失礼なことを言うはずがない
- ライバルの女性が主人公の亜夜に向かって吐く暴言が幼稚すぎてありえない
などというのがあったが、私にはそれほど不自然に感じなかった。
だいたい人間が人間に向かって言うことばに「ありえない」というのはありえない。
それが世の中ってものじゃないですかね?
木の鍵盤での練習は信じられない
それよりももっと私にとっては不自然だったのが、風間塵という16歳の少年が、お父さんが養蜂家で世界中を移動しているため、ピアノをもっておらず、恩師がつくってくれた木の鍵盤で練習している、ということ。
100歩ゆずって、彼はピアノは所有はしていないが、普段はレンタルスタジオのグランドピアノで練習している、としよう。
しかし映画のなかでは、コンクール前なのに木の鍵盤で練習していて、指先から血がにじむのだよ!
明治時代の久野久みたいに!
これは原作でもこうなっているのか?
こういう場面があると、
「うちの子どもがピアニストになったら、ピアノを買ってあげます」
なんていうお母さんが出現し、ピアノの先生も開いた口がふさがらない、なんてことになるのだ。
亜夜と塵の月夜の連弾シーンがすばらしい
私がこの映画のなかで一番好きなシーンは、亜夜と塵が月を見上げながら連弾をするところ。
最初はまずドビュッシーの「月の光」から。
それから塵が♭ラー♭ラ♭ソーファ♭ミーというフレーズを繰り返して、あれ、どこにいくのかな、と思っていたら、なんと1:49からはジャズのスタンダード、「It's only a paper moon」!
これがノリノリで楽しい!
ところが2:35あたりから亜夜が半音のトリルを弾き、マイナーなメロディーに一転。
亜夜を演じる松岡茉優さんと、塵を演じる鈴鹿央士さんは実際に弾いているわけではないのだが、息もピッタリ、からだの使い方もきわめて自然だ。
ああ、私も連弾したくなってきたよ、それも即興で!!