お正月は松竹の小津映画「お早よう」で
明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
といってもおせち料理もないウチでは、お正月らしいことは何もしていない。
私は子ども時代からおせち料理が苦手だった。
冷たいし、甘いし(スィーツで甘いのはOK)、ごはんと一緒に食べないし、お餅はのどに詰まりそうだし。
いつかおせち料理を食べなくてもすむようにと願っていたあの頃を思うと、今は願いが叶ったともいえる。
しかし亡き母は、さぞかしあの世で怒っているだろうな。
「お正月の用意もせんような子に育てたつもりはない!」
ああ、お母さん、ごめんなさい!
でもきょうは、松竹映画の富士山を見て、少しはお正月気分を味わった。
その映画とは、昭和を彷彿とさせる、小津安二郎監督作品の「お早よう」である。
昭和も今も変わらぬ人間関係のいろいろ
登場人物の女性のほとんどが着物を着ていたり、ちゃぶ台や火鉢といった、今では見られない小物が登場することを除けば、この映画中で語られている日常は今も不変である。
- 隣人が高価な洗濯機を買えたのは、よからぬ資金源があるのでは?
- 婦人会費を「納めた」「もらっていない」のいざこざ
- 子どもたちが自分に挨拶をしないのは、その母親が自分を恨んでいるから?
- 大人たちの常套句「お早よう」「こんばんは」「いいお天気ですね」「どちらへ」「ちょっとそこまで」などに意味があるのか?
こんな大人同士の腹の探り合い、疑心暗鬼、誤解はテレビどころか、SNSが発達した今でも普通に存在する。
ということは永遠になくならないんだね。
バッハの対位法のようにキチっときまる伏線
最近の映画や小説(といってもあまり知らないのだが)では、起承転結がはっきりしないばかりか、張られた伏線の回収もされていないのが多いと思う。
ところがこの小津作品では張られた伏線が、あとになってパチッ、パチッと決まり、「あー、そういうことだったのか」と納得がいく。
例えば、テレビが欲しいと駄々をこねる兄弟と停年に悩む隣人。
当初、兄弟の両親はまったくテレビを買う気はなかったと思う。
しかし職探しをしている停年になった隣人が、あらたに営業職に見つけ、彼に無理をいわれてテレビを買わされるハメになる。
停年になった隣人の妻はテレビを買ってもらったことから、兄弟の母親を見直す。
また、大人の挨拶には何の意味もないと憤る兄弟に、「それには意味がある」と諭す英語に通じた青年。
その青年も、好意をもっている女性には、挨拶以上の会話ができない可笑しさ。
そう、これなんだ。
それぞれのフレーズが意味をもって、さまざまな綾を織りなし、テーマを謳いあげる。
これってバッハに似ていないか?
きら星のごとくの俳優陣
この映画にはまさにきら星のごとく、名優陣が出演している。
停年の悲哀を語る隣人の東野英治郎。
口さがない主婦に杉村春子。
好きな女性を口説けない弟をもつ姉役に沢村貞子。
そしてきわめつけは美しい久我美子と現代でも通用する二枚目の佐田啓二!
佐田啓二が亡くなったのは1964年であるため、いかな私でも、リアルタイムではあまり存じ上げない。
私が知るのは、中井貴一のお父上ということと、2枚目スターだったという伝説のみである。
でも私が夫ちゃんに、
「このひと、昔はすごく人気があったんだって、格好いいから」
というと
「そうだろうね」と納得していた。
なのに久我美子については
「歯が変だ」と言っていた。八重歯のことらしい。
そこで
「日本では八重歯は欠点にならないの。フランス人のすきっ歯は大欠点だけど」
と言ってやった!
私の若いころは、久我美子さんはまだいろいろなテレビドラマに出演されていた。
けれどもこの映画でみられるように、お若くてモダンで、素敵なAラインのワンピース姿の久我美子さんは初めて見た。
今なら発表会か、およばれに着るような盛装だけれど、昔は普通に通勤時に着ていたんだね。
そう言えば、私がふだん着ているものにも母は文句をつけるだろうなあ。
「もうちょっとマシな恰好をしなさい!」って。