「これから弾きたい曲」はもっと少なかった
「これまでに弾いた曲」では曲数の少なさに愕然としたが、「これから弾きたい曲」ではもっともっと曲数が少なく唖然とした。
最初はもう、バッハやスカルラッティのバロックだけでいいのかなぁ、と思ったのだが、それではちょっと先生への印象もよろしくない気がして、なんとか他の作曲家のも押し込んでみたが、大変あっさりしたリストになった。
ところでバッハは総じて「好き」とは言えるのだが、それでも陰惨な雰囲気なものはちょっと遠慮したい。
バッハ好きからは、それは陰惨ではくて、静謐とか神秘的でしょ?と反論されそうだが、私としては「いやぁ~ ちょっとそれは勘弁して。聞きとないねん。ごめんね」といった気持ちになるのだ。
1フレーズだけが好きなショパンの2曲
このリストのなかで、
「いやぁー、これは弾かれへんやろ、そやけどせっかくやし、一応」
と思って入れたのが2曲ある。
どちらもショパンで、「バラード3番」と「アンダンテスピアナートと華麗なる大円舞曲」である。
この2曲は1フレーズだけ、とっても好きなところがあり、あとはまぁ、どうでもいいと言えばどうでもいい。
それは「バラード3番」は緑の線で囲んだところであり
アンダンテスピアナートは以下のところ。
こういうところだけ、胸キュンとなるのだが、あとはどっちでもよろしおます。
ショパンファンから猛反発を食らいそうである。
でもとっても好きなフレーズだから多少加工して、ジャズやポップスの即興、あるいはイントロ、エンディングで使ってやろう、と目論んでいる。
好きなものの範囲がすごく狭い
それにしても、弾きたい曲があんまりない!
ヤル気あんのか!
しかしつらつら考えると、私のこの傾向はどんなことにもあてはまりそうだ。
つまり、好きなものの範囲がすごく狭い。
だいたい決まっている。
それらを繰り返し見る、読む、聴く、食べる。
- 食べるのはパンとチーズさえあればなんとかなりそうだ(もう60年以上、これ以外の朝食は旅先以外、食べたことがない)
- 同じ映画を何回もみる:「シェルブールの雨傘」(見るというか、音楽を聴く)
- 同じ小説の決まったところだけ何回も読む:谷崎潤一郎の「細雪」、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」
- 同じ曲を「これでもか!」というくらい聴く:ジョー・サンプルの「Sunrise」
私は牛や羊のような反芻型
たぶんいってみれば私は開拓型の人間ではなく、牛や羊のような反芻型の人間なのかもしれない。
どんどん新しいものにチャレンジするのはどちらかといえば苦手で、気に入ったものをときどきとりだしては眺め、舐めてみる、味わう。
それはそれで悪くはないのかもしれない。
今までに弾いたことのある曲だって、もう弾けなくなってしまっているから、それらにときどき油を差して、改良を重ねる、というもの。
そういうのでもいいかも?
そしたらやっぱり今後も弾き続けたいのは、
この3つはまずはずせないなぁ。