村上春樹氏「一人称単数」のなかの「謝肉祭 (Carnaval)」とは
またしても村上春樹氏の短編で思うこと、である。短編集「一人称単数」は図書館で借りているからね。返却期日までに気になることを書いておきたいのだ。文庫本も720円ででているから買えばよさそうなものだが、今のところ購入するべきかどうかは決めていない。さて、きょうはそのなかの一編、「謝肉祭(Carnaval)」について。
著者本人を思わせるクラシック音楽好きの男性に、「醜い」女性の知り合いがいた。その女性、F*とクラシック音楽のピアノ曲について意見を交換しているうちに、無人島に持っていくピアノ音楽として、シューマンの謝肉祭を選ぶ、ということで意気投合する。
なぜシューマンを選ぶのか
ここのところ、クラシック音楽愛好家にとってはとても興味深いだろう。男性はシューマン以外の作曲家のピアノ曲を選ばない理由について以下のように述べている。
- ショパン➡朝起きて最初に聴きたくなる音楽ではない
- モーツァルト➡ピアノ・ソナタは美しくチャーミングだが、聴き飽きた
- バッハの平均律➡身を入れて聴くにはいささか長すぎ
- ベートーヴェン➡時として生真面目すぎるところが耳につく
- ブラームス➡しょっちゅう耳にしているとくたびれ、しばしば退屈する
- ドビュッシー&ラヴェル➡聴く時刻とシチュエーションを選ぶ必要がある
それで究極のピアノ音楽として選んだのは、シューベルトのいくつかのピアノ・ソナタとシューマンのピアノ音楽で、その中でも何か一曲だけを残すとすると➡シューマンの謝肉祭?
なぜシューマンの「謝肉祭」が無人島へもっていくピアノ曲なのか
私の根拠なき推測によると、これはこの「醜い」女性F*にとんでもない裏の顔があるため、仮面をかぶる謝肉祭とにひっかけたのではないか、と思う。
村上春樹氏はこのF*のことばを借りて、かなり詳細なシューマン論を述べている。引用するには長すぎるのでここでは書かないが、シューマンに思い入れのあるかたには、ぜひこの短編を読んでみることをおすすめする。
ここでは著者が「謝肉祭」演奏のベストワンとするルビンシュタインの演奏を貼るにとどめたいと思う。著者によると(引用はじめ)ルビンシュタインのピアノは人々のつけた仮面を力尽くで剝いだりしない。彼のピアノは風のように仮面と素顔との狭間を優しく軽やかに吹き抜けていく(引用おわり)
すべての女性は松竹梅である
この短編はなるほどクラシック音楽のファンには興味深いだろうが、私にはいささか(村上節だね)気になることがあった。それはF*という女性を形容する形容詞として「醜い」があまりに頻繁に使われていることである。
「醜い」女性なんているのか?少なくとも私はこれまで出会った人のなかで、「このひとは醜いな」と思ったことはない。私からすれば、この世の女性たちは、スーパー美しい(松)、どちらかと言えば美しい(竹)、松竹クラスではない(梅)に分かれるのみだ。それもこのカテゴリーはきわめて流動的で、女性がメイクをしたり、そのときの服装、状況、当人の感情や、あるいはそれを評価する人の好みで、簡単に梅が松になったり、松が梅になったりするのだ。
たしかに女性には、自分の外見を気にする人と、気にしない人の二手に分かれると思う。生まれつき容貌に恵まれているのに、どこへ行くのにもパッとしない服装で、それを気にしない女性も結構いる。またその反対もしかりである。
ところがこの短編中、F*はきわめて服の趣味がよく、身に着けているジュエリーも完璧だ、とある。ということはメイクもばっちりだろう。「醜い」はずがないと思う。
それとも何かね?男性というものは、つねに女性の美醜が価値基準になっているということを村上春樹氏は私たちに教えてくれているのか、あるいはそういうイヤな男性の視点を、イヤなものとわかっていて説明してくれているのか?
よくわからないが、なんかモヤモヤするなぁ。