ピレシュの「スーパーピアノレッスン/シューマン アラベスク①」
先日、2008年のNHK番組で、巨匠マリア・ジョアン・ピレシュが講師を務めた「スーパーピアノレッスン」のYouTube動画について記事を書いた。
kuromitsu-kinakochan.hatenablog.com
これにすっかりはまってしまった私は、きょうは「シューマン アラベスク②」を視聴。
こんどは彼女の哲学的・禅的な説明にすっかり感動してしまったのだ!
「スーパーピアノレッスン/シューマン アラベスク②」
例によってそのYouTube動画、「シューマン アラベスク②」を下に貼ったが、お仕事で忙しいピアノ学習者のかたが、これをわざわざクリックしてみてくださるとはあまり思えない。
「欲すること」と「願うこと」
そこでその手間をはぶくため、彼女の発言の日本語字幕を下に書いてみた。
まるで写経の心境である。
・・・(前略)
私たちは欲しすぎなの。あれもこれも欲しい。欲するということが毎日を邪魔してしまう。
「欲する」ということを「願う」に変えてみましょう。
「欲する」とは何かを所有するという意味です。
これは私のものであってあなたのものじゃない。
でも「願う」ということは自分から遠ざけることよ。
私たちの内側には残らないから邪魔をされることもない。
願ってみましょう 「願い」を外に向けるの。
例えばあなたは上手に弾きたいと思う。同じように私もそう願うわ。
でも上手に弾けない時もある。あなたも時にはそうよね。
でも「願い」がそこにある。
「願い」は私たちにいい知らせをもたらしてくれる。
「欲する」は私たちに無理をさせるの。
なぜなら無理は常に欲望から生じるから・・・(中略)
「欲すること」と「願うこと」を学んでいく必要があるのです。
椅子に座り、楽器をみたときから考え始めなければなりません。
私は欲しない、私は願っているだけだと。
欲望は私たちの内側へと向かうけれど、願いは外へ出ていく。
願いを書いた紙きれを、瓶に入れて海へ流すみたいにね・・・
で、この禅的・哲学的レクチャーをどう解釈するかだけれど・・・
私はね、こう思うのだ。
ノーミスで弾きたい、前に弾いた人より上手に弾きたい、と欲望でギラギラしているうちはいい演奏はできない。
いい演奏ができたらいいなぁと願うぐらいでちょうどよく、恬淡とした私心のない、純粋な音楽の喜びが表現できる、ということだと思ったのだが、違うかしらん?
「自分を褒めてあげたい」とか「楽しみたい」というのでもないなぁ。
そういうのって、全部 I want だものね。
もっと次元の違う、神聖なものをこの「願う」から感じるんだけど。
平易な英語で内容の深い話
もうひとつ気がついたこと。
マリア・ジョアン・ピレシュはポルトガル生まれなので、母語はポルトガル語だと思う。
ここでは万国共通の英語で話しているが、その英語はすばらしく上手だとは言い難い。
しかし平易なボキャブラリーを使って、内容の深い、説得力のある話をしてくださる。
どれほど平易かというと、欲することはwanting、願うはwish、じゃまするはdisturb、
上手に弾くはplay well、その反対はplay badlyなどなど。
ひとに何かを伝えたい場合、ボキャブラリーの豊富さが万能かというと、一概にそうでもないのでは?
やはりそのひとの内面から放たれる知性が、平易なことばに重みを加えてくれるのではないか、と思った次第であった。