大阪はミナミでかつての女子高生集まる
きょうは私にとってはるばる大阪はミナミまでお出かけの日。
高校時代の友人ふたりと会うためである。
私たちはともに神戸市内の県立高校に通っていたが、それは約半世紀前のこと。
友人の一人は、東南アジアの「微笑みの国」に暮らしてはや20年以上。
もう一人は教職という激務を果たし、お隣の西宮市在住。
私はと言えば、出稼ぎのため首都圏に26年住んだが、それも終了し関西に出戻り。
ともかく3人とも今は神戸に住んでいない。
こんなに違う家とプロのお好み焼き
久しぶりすぎる再会はなんば駅から近いお好み焼き店「風月」で行われた。
「さすが関西人!」と思われるかもしれないが、私自身はお好み焼き店の習わしについてまったく詳しくない。
- 具は何がいい?
- 自分で焼くのもOK?
- お箸でたべる?それとも金属製のヘラ?
なぜかというと、私の実家では「お好み焼きは家でつくるもの」と決まっており、それも母が焼くことにきまっていた。
母のやり方では生地には山芋なんかいれない。
小麦粉を水で溶いたものの中に、大量のキャベツのザク切り(風月のものより粗い)。
具はまず豚肉(牛すじなどは入れなかった)。
季節によっては牡蠣を入れることもあった。
そして片面を焼き終わったらひっくり返し、ヘラでペンペン!と叩くのだ。
プロのお好み焼き屋さんでは、叩いたりはしないようだなぁ。
1974年の宝塚初演「ベルサイユのばら」の思い出
旧友たちに会うまえは、少しは緊張するかなと思った。
ところがあってみると全然。
私たちはメニューをみながら「何がおいしいのん?」と聞いたりしたが、それはまるで「次の授業なんやったっけ?」というのと同じ調子である。
しかし話し始めると、各人が覚えている記憶はあやふやでもある。
担任の先生は誰だっただろうか、とか文化祭をズル休みして、当時宝塚歌劇で初演された「ベルサイユのばら」を見に行ったのは誰と誰だっただろう?とか・・・
私はこのときの「愛あればこそ」という歌を一発で覚え、そして今でも覚えている。
ローカルだったころの谷村新司氏の思い出
そういえば、旧友のひとりは谷村新司氏が率いる「アリス」のファンで、追っかけなどもしていたようだ。
あのころアリスは、まだまだ関西の若手の人気グループだった。
アイドル的存在というよりも、圧倒的な歌唱力と地元のファンを大事にする姿勢に人気が集まったようだった。
でも売れっ子になってしまってからは、ローカルなイメージは飛んで行ってしまったようだけれど・・・
今では谷村新司氏のコンサートでも高齢化が目立ち、ファンのなかには車椅子で来場されるかたも珍しくないそうだ。
そのファンというのが、まさしく私たちと同じ年代なんだけどね。
しかしお互いのあやふやな記憶をパズルのようにつなぎあわせているうちに、私には匂いとか音が蘇ってくることがある。
匂いとは、当時私たちの高校の近くにあった昆布製造会社から発せられる醤油の匂い。そして音とは、放課後、吹奏楽部の部員たちが発していた、サックスとかチューバの、寝ぼけたような管楽器の音。
ひぇーー あれはみな半世紀前の匂いや音だったのか!
寿命格差は誰にも文句が言えない
当然といえば当然であるが、私たちの年齢はみな同じである。
そして驚いたことに、知り合いのなかにはすでに亡くなった方も数人いるのだ!
それも50代や60代で!
最近、なんでも格差が問題となるが、この寿命の格差は誰にも文句のもっていきようがないであろう。
そしてこの年齢になると、カラダのどこにも問題を抱えていないひとなんているのだろうか?
私のように肩や腰の不調を訴える60代はごく普通だし、血糖値やコレステロール値に問題がなくても、絶対老眼には悩んでいるだろう!
私たちはみな満身創痍。
でも残された時間をできるだけ楽しく過ごさないともったいない、という結論がでた、昼下がりの「なんば風月お好み焼き座談会」だった。