思い出深い調律師さんもうひとり
女性の調律師、Kさんには10数年お世話になったのだが、その前任者はMさんという30代くらいの男性だった。
このMさんも思い出深い。
なぜかというと、エンディングがあまりにあっけなかったからなのだが、それは後回しにして・・・
Mさんに調律をお願いしていた頃、私は体力、気力とも会社で使い果たすという日々を送っていた。
住んでいたのは分譲マンションだったが、ピアノを弾いてもいい時間帯は、朝10時から夜8時まで、と決まっていた。
私の生活パターンは、朝は8時過ぎに出勤のため自宅を出て、帰宅は夜8時過ぎだったので、平日はまったくピアノを弾く時間がなかった。
それならば週末があるじゃないか、となるかもしれないが、週末は寝だめと、たまった家事をこなすので精一杯。
そんなにピアノを弾いていなかったのなら、何も年1回調律に来てもらう必要はなかったのかもしれない。
しかし調律師さんを派遣している楽器店から営業電話がはいれば、イヤとは言えず調律にきてもらっていたのである。
調律師さんベタ褒めのヤマハ1985年UX-5
Mさんによれば、ウチのアップライトピアノ、1985年製のヤマハUX-5は、グランドピアノと同じ材料を使っているすぐれもの、ということだった。
「こんなにいいピアノを持っているのに、あまり弾かないとはもったいない」と彼は繰り返し言っていた。
そして「一日5分でいいからピアノを弾いてください」とも言っていた。
それはピアノのためにいいということなのか、それとも私の指ならしにいいということなのか、よく理解していなかったが。
彼が調律の後、ピアノを弾いていたかどうかは今、まったく記憶にないのだが、一番好きな曲はドビュッシーの「月の光」だ、と言っていたっけ。
「きれいな曲ですよねぇ」と言いながらタメ息をつくように、
「女性はね、やっぱりこういう情緒に溢れたしっとりした曲を感情を込めて弾くのが似合いますよね」
というので、私も適当に相槌を打っていたものだ。
Mさんは相当なロマンティストだったに違いない。
さよならを言わなかったMさん
ところがある日の楽器店からの営業電話によれば、次回の調律師さんはもうMさんではない、と言う。
「Mはもう、調律はやらないと言って辞めたんですよ」
と電話口にでた年配の男性はそう言った。
ひょっとして楽器店の社長さんとかエラいさん?
「私どもはずいぶん引き留めたんですがね。
こんな給料じゃやってられないって。結婚もできないって」
尚、私には年収の低さと結婚の難しさが発想としてあまり結びつかないのだが、「え~?」とびっくりしたまま、男性の話に耳を傾けていた。
その後の男性の話によれば、
調律の仕事はそうそうあるものでない
(電子ピアノの興隆をみればそうかもしれない)
➡一家を養う男性の仕事として適当とはいいがたい
➡よって最近では女性の調律師が増えている
➡ゆえに、次回の調律にはKという女性がうかがう
という論理らしかった。
本当のことをいう必要はない
後になってから思ったのだが、この男性はどうして私にあんな裏話っぽいハナシを私にしたのだろう?
興味津々で聞いておいたくせにこう思うのもなんだが、
「Mは一身上の都合で退職いたしました。ねむいさんには大変お世話になりました、と申しておりました。次回からはKという女性が参りますが、大変優秀な調律師ですので、きっとお気に入っていただけると思います」
と言えばよかったのではないか?
Mさんは確かにいいひとだったが、退職理由を詮索するほど私は知りたがり屋でもないし・・・
でも、もしあの裏話が本当だったとしたら、Mさんは調律の仕事をやめてどんな仕事、どんな人生を歩んだのだろう、と気がかりでもある。
そしてできることなら、こう言いたい。
「Mさん、いまは毎日だいたい2時間ちょっとピアノを弾いていますよ!」と。