アメリカ大統領はいつから立派な人と思われなくなったのか?
こんなことを書くと「いったいトシいくつやねん?」と思われそうだが、私は暗殺されたケネディ大統領のお葬式のテレビニュースをはっきりと覚えている。
だってウチの母が、
「可哀そうに、可哀そうに・・・」
と泣かんばかりだったから。
私は映像に映っている大統領の娘、キャロラインさんを見て、
「あの子、私と同じぐらいのトシや。かわいそうになぁ~」
と思った(実際はキャロラインさんのほうが1歳下である)。
当時の日本では、アメリカ大統領と言えば、神様のように思われていたと思う。
つまり絶大の権力を所持するばかりでなく、お人柄も清廉潔白、完璧な人間、という意味だ。
それがニクソン大統領のウォーターゲート事件で、「そうでもないかも」に変わってきた。
そしてクリントン大統領の不倫騒動で、「そんなんありぃ?」になり、さらにトランプ大統領の出現で、アメリカの大統領というのはそんなもんや、という空気に変質してきたように思う。
でもこの映画「目撃」が公開された1997年では、大統領はまだそこそこ、立派な人間と思われていたのではないだろうか?
少なくとも日本では。
本国アメリカでは知らんけど。
付け加えるが、ケネディ大統領の立派なひとイメージも、その後報道されたマリリン・モンローとの不倫で、かき消えてしまったようだ。
「目撃」のあらすじと予告編
映画「目撃」はクリント・イーストウッド監督作品としては17作目にあたるらしい。
あらすじを簡単に書くと、
凄腕の泥棒、ルーサー(クリント・イーストウッド)が政界の大物、サリヴァン氏の邸宅に盗みにはいる。そこへ旅行に出かけていたはずのサリヴァン氏の妻、クリスティとアメリカ大統領(ジーン・ハックマン)が酔っぱらって帰ってくる。ルーサーは、この2人が不倫の上、大統領が性的暴行におよび、サリヴァン氏の妻がシークレットサービスに射殺されるのを見てしまう。シークレットサービスは事件をもみ消すために万全を尽くしたはずだったが、クリスティが自己防衛で大統領を刺したナイフはルーサーが持ち帰ってしまった・・・
アメリカ映画ではクライマックスで正義が勝つ
映画はほどほどにサスペンスの色濃く、ハラハラドキドキさせてくれる。
さすがにイーストウッドの作品である。
しかしやっぱりアメリカ映画である。
後味の悪い結末にはならないだろう、と確信をもって見ていられるところが、長所でもあり、物足らない点でもあるのだ、私には。
どうしてアメリカ映画では、ここぞというときに正義の味方があらわれ、事態が急展開するのだろう。
たとえば、性的暴行をされたクリスティがナイフをもって大統領に一撃を加えようとしたとたん、シークレットサービスの弾にあたる。
また秘密を握っていることから、命を狙われているルーサーの娘が、今まさにシークレットサービス側に襲われようとしているところに、図ったようにジャーン!!!と正義の味方、泥棒のおとっつぁん、ルーサーが現れる。
こんなこと都合のいいこと、実際には起こらないでしょ。
もうちょっとリアリティに即してほしい、と思うのだ。
家族の愛情が強調されるアメリカ映画
それにやたらと家族間の愛情が強調されているのも、見方によってはちょっと不自然でもある。
ルーサーの娘ケイトは、最初その犯罪歴から父を許せなかった。
しかし彼女の留守中にこっそり冷蔵庫に差し入れをしたり、隠れ家に彼女や亡くなった母の写真を飾っていたことから、しだいに父に対する不信感が消える。
さらに殺されかけた自分を身を挺して守ってくれたことから、父とのわだかまりは完全になくなる。
美しいストーリー、でもちょっと美しすぎない?
ともあれ、ニュースを見ようとすれば政治の世界のドロドロしかない昨今では、正義が勝つ映画は一服の清涼剤と言えるかもしれない。
ありがとう、イーストウッドさん!