夢でささやくピアノ

クラシックピアノとジャズピアノの両立を目指す、ねむいゆめこの迷走記録

バニーガールたちと過ごしたバブル期のヒット曲を聴いてみる

うさぎ年でバニーガールを思い出した

よくよく気がつけば今年はウサギ年。ウサギ、つまりバニーちゃんなんだな。今回は私が大勢のバニーちゃんと毎日を過ごした4年間ー日本のバブル期を思い出して書いてみた。

バニーガールとは、うさぎの耳のかたちをしたカチューシャを頭につけ、肩を出したボディースーツに網タイツをはいた女性たちである。私がピアノを弾いていたクラブはアメリカのプレイボーイクラブを真似て全国展開した会員制のクラブレストランで、ウェイトレスは全員このコスチュームだった(私はロングドレスを着ていたけれど)。

わたしがアホだからかもしれないが、当時は今がバブル期なんだという意識はなかった。ただ景気はいいんだな、とは感じていた。そしてこれは日本人のたぐいまれなる勤勉さからきているもので、未来永劫続くものだと思っていた。

ところで飲食店はどこもそうだったと思うが、連日満席の盛況ぶりだった。今から思うに、バブルで接待費が思う存分使えたからなのだろう。売上は右肩上がりだったから、職場の雰囲気は良かった。私は皆から「ピアノさん」と呼ばれ、スタッフの人たちから大事にしてもらえた。バニーガールちゃんたちはみな、地元神戸か西宮の大学生アルバイトだったので、私と2-3歳ぐらいしか年齢が変わらず、休憩時間はおしゃべりに花が咲く楽しい時間だった。

私はステージで何を弾いたか

私は7時、8時、9時、10時と4回のステージで各20分ずつ、ピアノを弾き、弾き語りもし(歌はピアノよりさらにヘタだったのに?)、短いトークもいれた。それで月~土までレギュラー出演したものだから、長年いろいろな仕事をしたなかでも、この仕事がいちばんよい収入をもたらしてくれた。

この仕事で一番頭が痛いのは技術の未熟さはともかく、すべてのリクエスに応えねばならないことと、レパートリーを増やすことだった。ところでこの頃、よく弾いていた曲は今、スーパー、商店街、カフェ、歯医者さんなどでほとんど耳にすることがない。私がそういう場所に行かないからなのかよくわからないけれど。

当時のスタンダード曲を今では耳にすることがない

当時のスタンダード曲とは、「追憶」「いそしぎ」「モア」「慕情」「想い出のサンフランシスコ」「フライ・ミー・ツー・ザ・ムーン」「ムーン・リヴァー」「メモリー」「マイ・ウェイ」「サヴァの女王」「アドロ」「雪が降る」「サントワマミー」「ろくでなし」などなど。

それから客層は50代以上の男性だったから、私の知らない終戦直後に流行したような曲も知っておかねばならなかった。アンチェインドメロディ」「日曜はダメよ」「バリハイ」「ビギン・ザ・ビギン」・・・

そしてたまに日本のフォークソング(あの頃はそう呼んだ)を混ぜると、お客さんは喜んでくれた。翼をください」「22歳の別れ」「なごり雪」「いちご白書をもう一度」などである。

理由はたぶん、営業成績が良かったからだと思うのだが、店側は私に「下手クソ!」とか「〇〇みたいな曲はやめて△△のような曲をやりなさい」ということは一切なかった。そしてお客さんの機嫌をとるようにとか、お客さんの席を廻るようにとか、そういう要望もまったくなかった。当時はわからなかったのだが、今から思うとすばらしい職場であった。やはり儲かっているということは、ひとを寛大にするのだろう。今だったら絶対言われるだろう。「もうちょっと練習してから来てくれへん?」とか、「お客さんに愛想よくしたら?」と。

1980年代の大ヒット曲2つ

それでは1980年代を代表する曲として、ワム!の「ケアレス・ウィスパー」と寺尾聡の「ルビーの指輪」とお聞きください!

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