「世界の」がつく有名人は誰?
私の知る限り、「世界の」がつく有名人はそれほど多くない。
世界のミフネ:三船敏郎
世界のクロサワ:黒澤明
そして世界のオザワ:小澤征爾
この最後の「世界の」がつく小澤征爾さんが先日、88歳でお亡くなりになった。
まさに「巨星落つ」である。
ところでこの頃は「世界の」という形容詞というか、接頭辞みたいなのをあまり見ない。
意味は世界的に評価されている、という意味だろうが、「世界のオオタニショウヘイ」というのは聞いたことがない。
思うに「世界の」がさかんに使われていた時代、日本はまだまだ欧米の先進諸国に遅れをとっている、という意識をメディアがもっていたのではないか。
それをいつ頃からかはわからないが、ようやく日本vs 欧米の列強という構図が薄れてきた気がする。
ともあれ、日本の映画界や音楽界を牽引してきた黒沢監督や小澤征爾さんって、ものすごい巨人なのだろう。
小澤征爾さんへの親近感は読書の結果
一応音楽ブログのカテゴリーにはいっているブログを書いているくせに、私には指揮者のうまい、へたがわからない。
うわぁ、本当に恥ずかしい。
そう言えば一時、帝王カラヤンに凝ったことがあったが、それはカラヤンの指揮が素晴らしいかったからではなく、彼の容姿がカッコよかったからである。
だからカラヤンの指揮に比べて、小澤さんの指揮のどこがこうで、ああで、なんてまったくわからないし、何も言えない。
だから私が少しでも「世界の」小澤征爾さんに親近感をもっているとしたら、それは彼のエッセイであったり、村上春樹さんとの対談集のおかげなのだ。
「ボクの音楽武者修行」で覚えていること
若いときに読んだのは、当時新潮文庫からでていた「ボクの音楽武者修行」。
内容は、「ブザンソン国際指揮者コンクール入賞から、カラヤン、バーンスタインに認められてニューヨーク・フィル副指揮者に就任するまで」をユーモアたっぷりに描いたものらしいが、今やほとんど覚えていない。
しかし今でも覚えているのは、楽譜を読み込むのに夢中だった小沢さんが、ご飯を食べたかどうかを覚えていなかった、というくだりである。
私にとって、ご飯を食べたかどうかを覚えていないというのは、認知症(当時は老人ボケといった)にでもならない限り、あり得ない事態である。
それほど勉学に夢中になる、という集中力には恐れ入った。
「小澤征爾さんと、音楽について話をする」
お次は村上春樹さんとの対談、「小澤征爾さんと、音楽について話をする」。
この本については、村上春樹さんの本、ということで以前、このブログで記事にした。
kuromitsu-kinakochan.hatenablog.com
文章は村上春樹さんによるものだから、この本の面白さは彼の筆力に負うところが大きい。
しかし村上春樹さんの問いかけに対し、小澤征爾さんが、「忘れていたことを次々に思い出した」という思い出話が興味深い。
たしか、カラヤンのことをつねに「カラヤン先生」と先生づけで呼んでいたな。
よっぽど敬服していたのだと思う。
あと、ジャズピアニストの秋吉敏子さんのことも、「あのひとはうまかったな~」と息づかいまでが聞こえるような言い方で感嘆していた。
音楽のジャンルにこだわらず、いいものはいい、とはっきりしていてまことに好感がもてたのである。
日本という国のなかにとどまらず、クラシックという枠にこだわらず、よっぽどおおらかなかただったんだろう。