プレリュードから平野啓一郎氏の「葬送」へ
皆のすなるショパンを私も弾かねば、とプレリュードに挑戦しようとしたが、一番好きな8番が超むずかしいので、突如、平野啓一郎氏の「葬送」の再読へ逃避している。
「葬送」はショパンとドラクロワの友情を軸に描いた19世紀を舞台にした大作だが、数年前にその長さのため、ひぃひぃ言いながら読んだ。あんなに苦労しながら読んだのに、中身についてはほとんど忘れている。
覚えているのは、ショパンが非常な寒がりで、ズボンの下に3枚下着を重ねていた、ということだけ。
今度こそ、ショパンの音楽の華麗、優美、繊細さへの根源に迫るぞ~と思い、読み始めたのだが・・・
ショパンのローストチキン事件
小説の中には、愛人のジョルジュ・サンドが、自分の息子、モーリスには肉がたっぷりついた胸肉を供し、ショパンには骨と皮だけのモモ肉を供したので、ショパンが激怒した、という逸話が挿入されている。
私はこの逸話を、別の本か映画で(確かな出典は忘れた)、ジョルジュ・サンドが、モモ肉が嫌いなショパンにモモ肉を供し、ショパンが好きな胸肉をモーリスに供したので、ショパンが激怒した、というヴァージョンを読んだ。
どっちにしろ、「食べ物のことぐらいで、そんなに怒るなんて」、というサンドに私は共感を覚える。
しかし、ショパンにすれば、胸肉がどうしても食べたかったというよりも、自分が大事に思われていない、という事実に憤慨したのだろう。
「いいんだ、どうせ僕なんて・・・」とスネればまだ良かったかもしれない。
しかし、ショパンはサンドの愛情を一身に浴び、100%思いやりのある待遇を望んでいたのだろう。ややこしいな、こんなひと。
いくら美形でも、才能があっても、私ならとてもやっていけない。
寅さんのメロン騒動
ちょっと似た場面が、1975年公開の映画「男はつらいよ 寅次郎相合傘」にもある。
寅さんファンにはおなじみの、「メロン論争」の場面である。
「とら屋」の面々が頂き物のメロンを食べようとした矢先、旅に出ていた寅さんが帰ってくる。
寅さんを人数勘定に入れずにメロンを切ってしまった、おばちゃんや妹のさくらさんは大あわて。
自分の分がないことに怒った寅さんは、この理不尽な仕打ちにとうとうと自説を述べ、みんなを糾弾する。
この場面は、山田監督の脚本のなかでも、傑作の部類にはいると思う。観客も、大笑いで寅さんの言い分をもっともとしながらも、とら屋のみなさんの肩を持つのではないか。
起こるべくして起こったショパンの事件
平野啓一郎氏の「葬送」では、ショパンはこの事件を思い出し、いかにも大人げなかった、と強く悔やんだことになっている。
しかし、ショパンとしても、ジョルジュ・サンドが真に愛しているのは自分ではなく、息子のモーリスだということに、以前からうすうす感づいてはいたのだろう。
そしてジョルジュ・サンドのほうでは、ショパンの気難しさにこれ以上付き合うのは限界だ、という気持ちがあったのかもしれない。
そういう背景があって、この事件は起こるべくして起こったような気がする。
食べ物の恨みはこわい
昔から「食べ物の恨みはこわい」ということばがある。
飽食の現代、食べ物のせいで人間が理性をなくすことはあまり考えられないけれど、食べ物がきっかけとなって、ひとの本性があらわれることもある、ということかな?
だから結局、ピアノの詩人、ショパンもフーテンの寅さんも、人間としては大してかわりがないのでは、と思ってしまうのだが・・・
いややはり、ショパンのファンから猛烈な抗議がきそうなので、このへんでやめておこう。