夢でささやくピアノ

クラシックピアノとジャズピアノの両立を目指す、ねむいゆめこの迷走記録

ショパンが生きていた頃のパリは超汚かったらしい

オスマンによるパリ改造計画」という動画

フランスと日本の学校の違いに関する話題が終わったら、先生はするするっとうまい具合にあらかじめ私がメールで連絡しておいたきょうのお題へと移っていった。

それは「オスマンによるパリ改造計画」(L'Urbanisme selon Haussmann)。

私がこれを選んだのは、なにももうすぐ始まるパリオリンピックにひっかけたわけではなく、単にムッシュー先生が評価している政治家がナポレオン3世と、パリを改造したオスマン男爵であることを知っていたからで、いわば忖度したからである。

案の定、ムッシュー先生はオスマン以前のパリがどんなに汚かったか(うちの夫ちゃんによるといまも汚い)を身振り手振りもまじえて話してくれた。

以下、このビデオの全編。

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不衛生なパリの街とその住民

オスマン男爵によるパリ大改造が始まったのが、1853年。

それまでのパリは密集地帯であったため、日はあたらず空気は淀んでいて、道は細く迷宮のようだったらしい。

人々はトイレの汚物を

「Attention ! (気ィつけて!)」

と言いながら放り投げるのがごく普通だったらしい。

とするとショパンがパリで最初の演奏会を開いたのが1832年

それから一度も故郷のポーランドに帰れずパリで亡くなったのが1849年。

とするとショパンが生きていた頃のパリはまさに不衛生きわまるパリに違いなく、彼は美しいピアノ曲の構想を練りながら、ワンちゃんの糞どころではなく人間のそれを踏まないように気を配りながら歩いていたのだろうか?

またこの頃はまだ衛生観念が乏しく、人々はキリスト教の影響から裸になることを忌み、お湯や水で体を洗うことにも抵抗があったらしい。

ということはショパンも週1回、体を拭くぐらい?

ひょっとして知らないほうがいいかもしれない。

富裕層は3階に住んだ

それがオスマン男爵の過激な大改造のおかげで、パリの街並みは美しく生まれ変わる。

典型的な建物が↓のような6階建て(日本式に数えると7階)。

一番下の階は商店、その上の階は商店主の住居や倉庫。

その上の階はバルコニーつきで富裕層向け。

その上とまたその上はバルコニーなし。

最上階はいわゆる女中部屋となる。

ところで今の日本では、階は上になるほど賃料も分譲価格も高くなるのでは?

だって上のほうが見晴らしがいいし。

でもなんでパリでは3階がいちばんリッチなの?

私の問いに対してムッシュー先生の答えは明快だった。

つまりその時代はエレベーターがまだ普及していなかったのだ。

エレベーターの普及は私の想像よりもずっと遅く、あのドア越しに外が見える構造のものでも多くは20世紀になってから、らしい。

だから人々(召使であっても)は水を運ぶのに階段を上り下りせねばならず、その理由から通行が便利な下の階が重宝されたとのことだった。

なるほどね。

オスマン男爵はカルテジアンらしい

オスマン男爵は「カルテジアン」らしい。

これは哲学者デカルトからきたことばで、デカルトのように合理的な考え方をする人に使うようだ。

というか、私には「きっちりしすぎ」「細かいことにうるさい」のほうがあたっているように思うが。

なぜなら彼が決めたパリの街路樹はマロニエプラタナス・楡・菩提樹の4種のみであり、その間隔も5mと定められており、決していきあたりばったりはなかったらしい。

ああ、そのせいで遠目にみれば美しいパリの街並みができあがったのだね。

そう思えばショパンは残念だ。

ジョルジュ・サンドのように70過ぎまで生きていれば、生まれ変わった美しいパリも見られたものを。