フランスメディアにひっぱりだこのアレクサンドル・タロー
フランスのピアニスト、アレクサンドル・タローに注目したのはここ数日前からである。
きっかけはミシェル・ルグランの「おもいでの夏」を彼がオーケストラとともにコンチェルト風に弾いているのを聴いたからだ。
それまでも名前だけは知っていた。
だって何といっても姓がタロー➡太郎だからね。
いやがおうでも記憶に組み込まれてしまう。
しかしその気になって調べると、このピアニストは非常に露出が多いことに気がついた。
純粋なクラシック音楽だけではなく、映画音楽もレコーディングしているし、映画にもチョイ役で出ているそうだ(ハネケの「愛、アムール」や、近作ではラヴェルの伝記映画「ボレロ 永遠の旋律)。
ということはフランスメディアからひっぱりだこらしい。
そして社会的にも、LGBTに反対する人々に反対する活動も行っているから、いわゆる「ときの人」ではないだろうか?
しかし今回私が彼に興味をもったのは、彼が自宅にピアノを置かない主義であることを知ったからである。
それに言及しているのが日本語では下の記事。
試しにフランス語で検索してみたら、彼のこの「家にピアノを置かない主義」に関する記事は本当にたくさんあった。
ひょっとしてクラシックピアノに関心があるひとはみな知っているのかもしれない。
すでにご存じのかたがこの記事を読んだら、
「そんなのとっくの昔から知っているのに、なにをいまさら書いているだろう」
と思われるかもしれない。
だが、私は本当にびっくりした。
家にピアノがなくても、練習できるのか?
プロのクラシックピアニストとしてのレベルが保てるのか?
アレクサンドル・タローが自宅にピアノを置かない理由
カトリック寄りのニュース記事「La Croix」によれば、彼がピアノを自宅に置かなくなって7年。
現在では、自宅を不在にしている友人たちの家を渡り歩いて、彼らのピアノで練習しているそうだ。
なぜ自宅でピアノを弾かないのか?
それは自宅でピアノに向かっていると、つい楽譜の解釈等に時間をとってしまい、本当の意味でピアノに向き合っていなかったからだ、と彼は言う。
ゆえに自分とピアノのあいだにはある距離感が必要であることを感じ、現在ではまず、必要な楽譜だけを持って不在の友人宅を行く➡友人宅の鎧戸も開けず、閉めたまま、集中してピアノを弾くそうだ。
こうやって自宅にピアノを置かない生活をしていると、ピアノを弾きたい、という欲望がむくむく沸いてくる(そうである)。
そしてやっとピアノが弾けるという状態になったとき、この欲望を抱えたまま大食漢のように、ピアノに向かって突進するそうだ。
Alexandre Tharaud, pianiste sans piano
カフェで勉強するひとと一緒ではないか?
こういわれてみれば彼の論理がわかったような気もする。
だが、私にはあてはまらないな、と直感する。
なぜってこれは、家で勉強しないでカフェで勉強する人々に似ていないか?
彼らが言うには、家では集中できないから外でやるのだ、と言う。
ということは家には小さい子どもでもいるのかと思いきや、一人暮らしのひとでもそういう人がいる。
反して私は彼らと対極に位置するタイプである。
私はカフェで勉強なんかできない。
まず、オーダーする飲み物におカネがかかるし、周囲の人々の存在が気になって(彼らは私の存在など気にしていないが)勉強どころではないのだ。
それに勉強にはノートや参考文献がいる。
それを持ち歩くなんて、荷物を持つのが大嫌いな私にはできない相談である。
とにかく私は自分のウチが大好きなのだ。
お茶やコーヒーを飲むのも、ケーキを食べるのも、ピアノを弾くのも、勉強するのも、自分の家ほど良いところはないと思っているのだが、こういうのって少数派なんだろうか?