よい邦訳タイトルがほしい「プレイス・イン・ザ・ハート」
1984年のアメリカ映画「プレイス・イン・ザ・ハート」はアカデミー脚本賞と、主演のサリー・フィールドにアカデミー主演女優賞をもたらした名作らしい。
私も久しぶりにいい映画をみたとほっこりしたし、ロッテントマトのトマトメーターだって批評家、視聴者ともに80%を超えているのだから。
ところがYouTubeで検索しても日本語予告編はみあたらないから、日本ではあまり人気がないのではないか、と勘ぐった。
だとしたら、原題をそのままカタカナにした(といっても places という複数形は反映されていないが)タイトルにあるのではないだろうか?
ヘタな邦題も困るが、「プレイス・イン・ザ・ハート」では「なんやねん?」と思うのが普通だろう。
ではどう訳すればいい?と聞かれても困るが、どうか観客が食いつきそうなタイトルぐらい、映画配給会社は考えてほしいものだ。
「プレイス・イン・ザ・ハート」のあらすじと英語予告編
映画「プレイス・イン・ザ・ハート」あらすじをざっくりご紹介すると
舞台は大恐慌の影響が色濃く残る1935年、テキサス州にある田舎町。
保安官の夫を黒人少年の誤射によって失くした主婦エドナ(サリー・フィールド)は2人の子どもを抱えてどう生活していくのか途方に暮れる。
そんな日、仕事を求めて家にやってきた黒人の中年男性モーゼス(ダニー・クローヴァー)に銀器を盗まれるが、彼が綿花栽培に詳しいことに賭けて、彼の罪を問わず、今までやったことのない綿花栽培で生計を立てようと奮闘する。
そこへ下宿代が家計の足しになるからという名目で、盲目の白人男性(ジョン・マルコヴィッチ)の世話も押し付けられ、寡婦・黒人・身障者といった社会的弱者がお互いに助け合いながらさまざまな困難に立ち向かっていく。
問題提起は女性の自立だけではない
私は最初の30分間、これは「経済的に自立していない女性は夫を亡くした後、困窮しますよ、大変ですよ」がメッセージの映画かと思っていた。
しかしだんだんそれだけではないなぁ、もっといろいろあるなぁ(人種差別、身障者への差別、貧困、災害、小さな町に住む閉塞感)と思い至った。
まず、エドナは夫の死後、「今まで家事と育児しかしてこなかった」と自分を責めるが、もともと知恵も根性もある女性らしい。
なにしろ、銀器を盗んだモーゼスの前科と、彼が綿花栽培の役に立つだろうとプラス面を一瞬で計りにかける機転をもちあわせているのだから。
それに家族を離散させないために、モーゼスも反対する綿花の早摘み競争に打って出る勝気さはスカーレット・オハラも顔負けである。
しかしエドナは誰に対しても偉ぶったり、高ぶることはない。
どちらかといえば自信なさげに、オドオドしながらも、銀行への借金、子どものしつけ問題、竜巻被害といった困難をひょうひょうと乗り越えていく。
それにしても綿花の収穫って、あんなに大変なものなんだね。
腰は膝の痛みはともかく、指先は血まみれになる。
あれじゃとてもピアノなんか弾いていられないよ。
不思議なラストシーン
この映画のラストシーンは教会での礼拝場面だ。
牧師さんが聖書から「コリント信徒への手紙」を読み上げる。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない」
その間、夫の不倫を許せなかったはずの妻が夫の手に自分の手を重ねる。
「あれ、この二人、別れるんじゃなかったっけ?」
パンと葡萄酒が配られる信者のなかには、銀行員、ミュージシャン、そしてこの街をでたはずのモーゼスの姿が。
「あれ、あの人まだいるよ!」
と言う夫ちゃん。
勘が鈍い私たち2人は最初わからなかったのだが、死んだはずのエドナの夫、エドナの夫を誤射したためにリンチで殺された黒人少年もいることからやっとわかった。
つまりこれは現世とあの世の境はなく、愛によってひとはみな平等に許される。
愛こそがすべて、というメッセージではなかったのか。
ぼーっと観てたら見逃してしまうもんだね、いい映画って。